2018年8月5日の説教要約 「人生の嵐の中で」

2018年8月5日の説教要約
  「人生の嵐の中で」   中道由子牧師

中心聖句≪イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。
恐れることはない。」≫ (マタイによる福音書14章27節)

要点
1、眠っておられるイエス、2、弟子たちを叱り、風と湖を叱る(8章23〜27章)
3、湖の上を歩くイエス(14章22〜27節)


1、眠っておられるイエス
8章23節「イエスが船に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、船は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた、」
エス様を信じて信仰生活をスタートさせたのに、嵐がやって来た。問題や試練が押し寄せてきた、ということはないでしょうか。私たちは、イエス様を信じればすべてうまくいくと考えがちです。しかし、イエス様を信じていても、悲しいことも起これば、解決されない問題もあります。
 神様が眠っておられるように感じることもあります。
ここで、8章24節に「イエスは眠っておられた。」とあります。イエス様は、大変な嵐と突風の中で船が転覆するかもしれないなかでも熟睡されていたのでした。そして、その前の20節のお言葉では「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない、」とイエス様は言われたのです。ご自分は枕する所がない、眠るところがない、と言われた、イエス様がこのところでは大嵐の船の中で眠っておられる。このひっくり返りそうな船の中をご自分の寝床にされているのです。イエス様は天地の造り主であられますから、どんな環境にも支配されません。イエス様は確かに人間の体を持っておられましたから、私たちと同じ環境に置かれました、けれど、その環境に支配されるということがなかったのです。そのイエス様と一緒に人生の船に乗っていることを忘れてはいけません。このお方が一緒でなければ、どんなに良いことばかりの人生のように見えても不安だらけです。でも、この方が一緒に歩んで下されば、詩編の記者のように
詩編23編:4節「死の陰の谷を行く時も、わたちは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」という信仰に立てるのではないでしょうか。
 人生にはいつでも嵐が起こるものです。その嵐をどのように耐えるかが重要なのです。嵐に襲われないことが重要なのではなく、その嵐をどのように受け止め、どのように勝利するかが重要です。
 
2、弟子たちを叱る
 弟子たちは、どうしたでしょうか?
近寄ってイエス様を起こし、「主よ、助けてください。溺れそうです。」と言ったのです。
彼らは、自分たちではどうにもできないとわかってイエス様を起こしたのです。私たちも主を起こしに行きましょう。主は熟睡しておられても私たちの助けを求める声に目を覚まし、立ち上がって下さいます。
8章26節で「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と嵐を叱る前に、弟子たちを叱られました。イエス様の関心は、嵐ではなく、弟子たちだった。
私たち日本人は「信仰が薄い」とか、「信仰が厚い」という表現を使います。日本語としては言い慣れているからです。ギリシャ語の意味は、「信仰が小さい」というのです。
「ちっぽけな信仰」ということです。ここで問われている弟子たちの信仰の小ささ、薄さというのは、目に見えるものしか見ていない、見えなかった、信じられなかったところにあります。彼らには、目に見えるところの嵐が大きく、恐ろしかったのです。
そして、「神様は私を捨てられた。」、「神様は眠っておられる。」、「神様は私には関心がない。」と思ってしまいます。しかし、実はまったく逆です。私たちが苦しみ、絶望に陥っているときこそ、神様は最も近くにおられます。

 マーガレット・F・パワーズの「足跡」という詩をご存じでしょうか?
「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた、『「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。』」

主は、あなたを背負って歩いて下さいます。
 次にイエス様は、風と湖をお叱りになり、問題を解決して下さいました。苦難は必ず来るものですが、永遠に続くものではありません。今受けている苦しみは、後に来る栄光に比べるなら取るに足りないものです。主は嵐を叱り、荒波を静めて下さいます。

3、湖を歩くイエス
 14章22~27節は別の状況で起こった出来事ですが、今日は、嵐ということに焦点を合わせています。ここではイエス様は夕方になっても一人で山で祈っておられたのです。
一方、弟子たちは舟に乗っており、結構沖合に出てしまっていました。夕方からずっと逆行する風に悩まされていたのです。弟子たちはもうへとへとになっていたことでしょう。   口語訳聖書では、夜明けの4時頃イエス様がやってこられました。どのようにして来られたかというと湖の上を歩いておいでになった。強風をつき抜けてこられたのです。しかも、弟子たちが思いもかけない時に思いもかけない方法で。しかし、主はずっと湖のほとりから弟子たちの舟が荒波に悩まされている様子を見ておられたにちがいありません。ずっと弟子たちの後を追っておられたのです。今も主は私たちの後を追っておられます。
弟子たちは嵐の中で急にイエス様が現れたので、「幽霊だ」と言っておびえたというのです。環境に支配され、イエス様を悪しき者と迷うほど霊的に弱り果てていたのです。
主がお語りになった言葉は、本日の中心聖句です・
14章27節「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
口語訳では「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない。」
英語では”It is I.”になっています。
黙示録1章17節に
「恐れるな。私は最初にして最後の者、また生きている者である。」私はアルパであり、オメガである、と言われた。アルパはギリシャ語のアルファベットの最初の文字であり、オメガは最後の文字です。最初から存在し、この世の最後を支配しておられる方の力強いお言葉です。全世界を造った私がここにいると嵐で悩んでいる弟子たちの所に、主は来て下さったのです。
 実はここはマタイ福音書の真ん中に譬えられる箇所なのです。
何の真ん中かと言えば、マタイによる福音書の「インマヌエルの神」宣言の真ん中に当たるのです。
マタイ1章23節「『その名はインマヌエルと呼ばれる。』『この名は、神は我々と共におられる。』」  これが最初のインマヌエルです。
そして、一番最後の
マタイ28章20節「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
そしてマタイ14章はちょうどマタイによる福音書の真ん中あたりで
27節「わたしだ。」と声をかけて下さった、ここはどんなときにも、私たちが人生の荒波にもまれる時、共にいてくださる主をマタイは記したのです。

クリスチャンの人生は水の上を歩くように、常識で考えれば不可能だと思えるような人生です。しかし、主が共におられるなら歩けます。