2018年12月30日の説教要約 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

2018年12月30日の説教要約

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」     伊勢原教会 古川信一牧師

          <マタイによる福音書14章22〜33節(中心27節)>
マタイ14:27は伊勢原教会の今年の御言葉です。『しかしイエスはすぐに彼らに声をかけて「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた』(口語訳)


①最悪と思える状況こそ、救い主の恵みが溢れる舞台に
弟子たちの舟は、ガリラヤ湖で予期せぬ嵐に遭遇します。順調にいけばすぐに渡れる距離であったにもかかわらず、大自然の猛威に行く手を阻まれ、弟子たちは必死で格闘します。あいにく、イエスは一緒に乗っておらず、しかも「夕暮れ」(15)になっていました。突然の嵐に遭遇した弟子たちの舟は、「逆風」(24)と、激しい波に翻弄されて、木の葉のように揺れ動きます。自分たちにはコントロール不能な巨大な力の前に、彼らの持っている知識や経験はあまりに無力でした。行き詰まりの中で、疲れ果てていた弟子たちのところへ、イエスが嵐を掻き分け、湖上を歩いて助けに来られた時刻は「夜が明けるころ」(25)でした。 
まず注目したいことは、イエスが嵐に弄ばれる弟子たちの舟を訪れるタイミングです。いったい彼らは何時間暗やみの中で格闘したのでしょうか。イエスはなぜもっと早く助けに来てくれないのでしょうか。まるで、助けに行く頃合いを計算しておられるかのようですね。イエスは彼らの状況を知っておりながら、なぜかすぐには助けに行かなかったのです。イエスが舟を訪ねたのは、弟子たちの疲労と緊張が限界に達するタイミングでした。なぜでしょうか。それは最悪と思える状況の中でこそ、イエスの恵みの力が発揮され、救いのみわざが豊かに現れるためではないでしょうか。この格闘のプロセスに意味があるからです。遅いと感じる救いのタイミングと、後に弟子たちの口から飛び出した信仰告白(33)とは深くつながっているように思えてなりません。この嵐を通して、激しい戦いを通して、弟子たちに、「ほんとうにあなたは神の子です」と叫ばせるためではないでしょうか。自分たちの力の限界に気づかせ、イエスに対する信仰告白を引き出すためではないでしょうか。そのために主はあえて、弟子たちを助けに行くタイミングを遅らせたのかもしれません。
福音書のある場面がここに重なるように思い起こされます。それはヨハネ11章のラザロの生き返りの出来事です。イエスは「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」(ヨハネ11:6)というのです。不可解ではありませんか。この遅延は何のためでしょうか。主よ。なぜもっと早く来てくれなかったのですか。ラザロの姉妹、マリヤは遅れてきたイエスに、泣きながらそう訴えました。ヨハネ11:5には、イエスは彼らを愛していたとはっきり記されています。それでもイエスはすぐに動かなかったのですね。それは死後四日という最悪の状況の中から、ラザロを生き返らせることによって、そこにいる人々がイエスをメシアと信じるためであり、一同が神の栄光の目撃者にされるためでありました。イエスはマルタに「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(11:40)と言って、天を仰いで祈りをささげると、大声で叫ばれ、死後4日も経っていた死人を墓から呼び出したのです。
私たちもこの弟子たちと同じプロセスを経験することがあります。祈っているのに、頑張っているのに、状況が一向に変わらない。イエスはなぜ私の苦しみを解決してくれないのか。なぜ、救いのわざを起こしてくれないのか。そういう戦いの中を通されます。しかしそれは、私たちを徒に苦しめるためではなく、最悪とも思える状況の中でこそ、神の救いの恵みが力強く現れ、お互いの内側からイエスに対する信仰告白が生れてくるためではないでしょうか。
エスがあまりに超自然的な、信じがたい姿でやって来られたために、弟子たちははじめイエスであることがわかりませんでした。暗やみの中で何時間も格闘し、疲労と緊張の極限状況の中で、パニックになり、「幽霊だ」と恐怖の叫び声をあげた弟子たちに、イエスはいかにしてご自身を知らせたのでしょうか。御言葉の語りかけですね。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(14)。何という力強い、慰めに満ちたイエスの言葉でしょうか。嵐の海に立つ方が、イエスご自身であると気づかせた決め手は御言葉です。そのうえで、イエスが弟子たちに真っ先に与えたのは安心でした。それは嵐の中の安心です。嵐が止んだのはいつだったでしょうか。「二人が舟に乗り込むと」(32)、つまりそれまでは嵐は続いているということです。したがって「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(14)とは、嵐の中に響くイエスの語りかけであることに気づきます。イエスが与える安心は、波風一つ立たない静かな湖のような安心ではなく、荒れ狂う嵐のただ中に与えられる安心であることを深く覚えようではありませんか。
私たちもしばしば人生の嵐に出会う。突然風向きが変わり、状況が一変し、逆風と恐怖に苛まれ、自分ではどうすることもできないような、行き詰まりに直面させられることがあるでしょう。しかしその中でこそ、共におられるイエスに目が開かれ、キリストの御言葉による安心を経験できるのです。キリストは今日も私たちの恐れの現実のただ中に立ち、御言葉を語り、安心を与えようとしておられます。わたしがここにいる。安心せよ。恐れることはない。そう語っておられるのです。


②救いの出来事を共有する礼拝共同体
『舟の中にいた人たちは「本当にあなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ』(33)。これは信仰告白にほかなりません。弟子たちの恐怖の叫び声は、イエスの御言葉によって、信仰告白に変えられ、礼拝に変えられました。この嵐は結果として弟子たちを主に対する礼拝に導き、彼らの中から信仰告白を生み出したのです。それは舟の中の者たちが、共にする告白であります。「舟」とは「飛行機」に似ていて、もし一度重大な事故が起これば、全員の命が左右される乗り物です。それほどまでに互いの結びつきが強い運命共同体、それが舟であり、舟はしばしば教会に喩えられてきました。そもそも、弟子たちがこの嵐に出会った背後には、イエスの意図が働いていました。「強いて舟に乗せ」たのは、ほかならぬイエスだからです。私たちは自分の意志という以上に、イエスの御心によって、ある意味で強いられるようにして、同じ舟に乗せられている信仰共同体なのです。それが教会です。イエスの選びによって集められたその目的は、お互いが喜びも悲しみも苦しみも共に分かち合い、同じ救いの出来事を経験するためにほかなりません。
エスは人生の嵐に悩む私たちの舟を、今日も訪ねておられます。嵐の中に立っておられる救い主なるイエスに心の目が開かれ、私たちは声をそろえて共に叫ぶのです。「本当にあなたは神の子です」。それこそが、私たちが舟の中で繰り返しささげる礼拝を通して生まれてくるお互いの信仰告白なのです。
一年が終わろうとしている。主はこの一年の舟の戦いを知っておられます。努力も知っています。そのうえで救いの出来事を共有させ、「イエス・キリストは主である」という信仰告白を引き出すために、今日も私たちの嵐のただ中に来てくださり、信仰によって共にいてくださる現実に気づかせようと、力強く声をかけておられるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」