2019年1月6日の説教要約 「三年目の祝福」

2019年1月6日の説教要約
           「三年目の祝福」     中道由子牧師

≪今年は落穂から生じた穀物を食べ、二年目は自然に生じたものを食べ、三年目には種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作り、その実りを食べる。≫ 
                      (イザヤ書37;30〜32)


新年おめでとうございます。 
2019年の教会のみ言葉として神様が与えてくださった個所です。

このみ言葉の歴史的背景は、紀元前722年に北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国だけが残ります。その時のユダ王国の王がヒゼキヤでした。彼は、40歳前後にして、人生の危機に二度直面しました。一度目は敵の襲撃、二度目は病気でした。この箇所は、一度目の危機である、アッシリアからの襲撃を受けた時に、預言者イザヤから語られた言葉でした。
ヒゼキヤ王は、紀元前705年、アッシリアが弱くなってきたので、アッシリアへの貢ぎ物を止めました。そして、エジプトと同盟を組んだりして手を裏に回しているうちに、それから5年もしない紀元前701年、アッシリアのセナケリブの軍隊が襲ってきたのです。この時、驚くことにヒゼキヤ王は、あっさり降伏して、金や銀を与えてしまいます。(列王記下18章13〜16節)
しかし、セナケリブはそれだけでは収まらず、イスラエルの神を冒涜してきます。
これに対してヒゼキヤは(列王記下19章1〜3節)、衣を裂き、粗布をまとって主の神殿に行きます。預言者イザヤに使いを出します。 イザヤは、このヒゼキヤの言葉に対して
「主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼らの中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。」
と預言したのです。エジプトに頼るのではない、ヒゼキヤは必死で神様に祈りました。
そのような背景の中でイザヤは必ず勝利があるとそのしるしとして、本日の30節からの穀物の実りの預言をしたのです。


1、主のしるし
ここに今年、つまり1年目のしるし、2年目のしるし、3年目のしるしが書かれています。
1年目は落ち穂から生じた穀物を食べる。落ち穂ですぐに思い出すのは、ルツ記です。ルツは刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めました。これは、レビ記にある「収穫の刈り入れの時に、収穫の後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しておきなさい。」という律法によります。前の年に落ちた穂が誰も拾わなくて芽を出し収穫できた。その穀物を一年目は食べたのです。
レビ記25章5節「休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない。」
安息年、ヨベルの年、解放の年のことがここから読み取れます。まだセナケリブの大軍に勝っていない時に、解放の預言がされたのです。
 2年目は自然に生じたものを食べる。3年目は、いよいよ種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作り、その実りを食べる年です。ぶどう畑と書かれています。ぶどうは豊かな未来を約束します。神様はどのような実を見せてくださるのでしょう。



2、残された者
「残りの者」は、英語で「レムナント」と言います。旧約聖書には、神の怒りや裁きが下る時に、多くの者が滅びる一方、神の選びによって目的をもって残されている者がいました。バビロン捕囚の時にも、神は残りの者をちゃんと備えておってくださいました。エルサレムに帰り、主の神殿をもう一度建てたのも残りの者でした。
神様は教会にそのような方々をお与えくださいます。皆さんを中心にして、教会は、下に根をしっかり下し、上に実を結んでいくのです。



3、万軍の主の熱心
でも、誰かを当てにしているとその人がいなくなるとがっかりします。こんなはずではなかった、と失望したりします。神様を見て神様に繋がっていないと、人に寄りかかっていると倒れてしまいます。人を頼りにしていると限界があります。教会は神様のものであり、主の熱心だけが勝利を与えるのです。
イザヤ書37章36節
「主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。」
誰か特別な有志がいたわけではなかったのです。万軍の主の熱心、私たちを、命をかけるほど愛して下さった愛により勝利と祝福は送られてくるのです。