2020年4月5日礼拝説教 「罪人の一人に数えられた」

 2020年4月5日 礼拝説教 

                                「罪人の一人に数えられた」   中道善次牧師

                                         <マルコ15章20~32節>

 

イントロ:おはようございます。

今週もインターネットを通しての礼拝でありますが、先週、多くの方から、「いつもと同じように礼拝を持つことが出来て感謝です」とご連絡をいただきました。

今日も「いつもと同じように」皆様と共に礼拝が出来ることを願っております。

コロナウイルスの感染拡大がなかなか収まらない状況です。

思いがけない災難に見舞われる危険が私たちすべてにあります。

そのような危機の中で思い出した一つのメッセージがありました。

2003年、私はOMSの宣教師を送り出しているアメリカのメイン州の教会を訪れました。

その教会のジェフ牧師のメッセージを思い出しました。それは、9・11のテロのあとに語られたメッセージであります。

英語での説教でした。次のような内容でした。

何故テロが起きたのか?どうしてあの人々は被害を受けたのか?などなど、いろいろな疑問がある。

私はそれらのことについて、適切な答えを持っているわけではない。私も、わからないことがいっぱいある。

しかし一つのことを考えている。私たちは不幸な目に遭う時だけ、神様何故ですかと問いかける。だが神様から祝福を受ける時、平安な日々を過ごすとき、「どうしてこのような祝福を受けるのですか?」「どうして私たちがいつも平安の中で護られるのですか?」

私たちはそのような問いかけをしない傾向を持っているのではないか?

私たちは、祝福を受ける時にも、神様どうしてこのような私を祝福されるのですか?私にはわかりません。何故ですか?

危険がいっぱいの世の中でいつも守られています。どうしてですか?

幸せなときにも、問いかけるべき事はいっぱいあるのです。しかし、私たちは、よいことに対しては「何故?」と言わないで、悪い時だけ「何故?」と神様に問いかける。

神様の祝福や神様の守りを当然のこととしないで、感謝を持ちたいのです。そして、私たちの上に、日本の上に、そして世界の上に、主の守りと癒しを祈りたいと思います。

 

今日は、教会のカレンダーでは「しゅろの主日」と呼ばれます。

ホザナ、ホザナと人々がイエス様を迎えたのです。しかしその週の金曜日にイエスは十字架につけられました。この日から、十字架に向かわれる受難週が始まるのであります。

受難週を迎える日曜日、イエスの十字架を覚えながら礼拝を持ちたいと思います。

二つのポイントでお話しします。① 私たちの身代わりとなられたイエス、 ② 十字架上の七つの言葉、

 

① 私たちの身代わりとなられたイエス

マルコによる福音書茅ヶ崎教会では学んできております。

ずっと気になっている聖句がありました。それはマルコ福音書15章28節の言葉です。

マコ 15:28 〔こうして「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。〕

口語訳ではカッコの中ですが、本文中にあります。しかし新改訳や新共同訳では、後代の挿入であるので、本文の中には載っておりません。

マルコ福音書では、イエス様が十字架にかかられた時の姿、犯罪人が右と左に十字架につけられており、イエスは、二人の間にはさまれて十字架についている。その姿をみて、イエスが罪人の一人として数えられたと述べるのです。

この言葉は、マルコ福音書では後の挿入ですが、ルカによる福音書では、イエスの言葉として本文中に載っております。

ルカ 22:37 あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。

ルカ福音書のイエスの言葉の中で、二重括弧で引用されている『彼は罪人のひとりに数えられた』は、イザヤ53章12節の引用であります。イザヤ53:12の後半部分だけ読みます。

イザ 53:12 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

ルカ福音書の中で、イエス様は、イザヤ書53章の言葉を引用して、この言葉が実現しなければならないと言っておられるのです。

イザヤ53章は、イザヤが書いた預言で「苦難の僕」の預言と呼ばれます。イエス様が十字架にかかるお姿を、あたかも、その真下で見ていたのではないかと言われる預言です。罪人である私たちの身代わりとして、苦しみを受け、私たちを赦し、救う僕。それが苦難の僕の姿です。自分はその苦難の僕なのだ。イエス様には、はっきりとその自覚があったのです。

自分は罪人の一人に数えられるのだ。ルカによる福音書では、この言葉を、ゲッセマネの園の祈りに向かう直前に語っておられます。十字架を受ける前の大きな戦い、ある意味では、十字架以上の大きな戦い、それがゲッセマネの祈りであったと数週間前の説教で申し上げました。この祈りの直後にイエスは逮捕されたのです。

エス様は、私たちの身代わりになって十字架にかかって死なれたのです。

エス様は、罪人の一人に数えられたのです。私たち罪人と同じ一人となられたのです。

私たちが牧会する3つの教会の中の一つの教会のメンバーの方のことをお話しします。

その方は、昨年の年末、入院されました。その入院中、毎日、この歌を、賛美を歌って欲しいと奥さまにリクエストされたのです。奥さまは、その歌のメロディの中で不確かな部分があったのです。私たちがお見舞いに行ったとき、病室でその歌を一緒に歌いました。それは新聖歌112番です。

1節だけ紹介します(説教では歌います)

♪カルバリ山の十字架に尽きて、イエスは尊き血潮を流し、救いの道を開き給えり、カルバリの十字架、わが為なり、ああ十字架、ああ十字架、カルバリの十字架、わが為なり♪

私のための十字架、私の身代わりとしての十字架、私のために救いの道を開いてくださった十字架

そのように歌う讃美歌です。

十字架の上で、罪人の一人となってくださり、私の身代わりとなってくださった。

このイエスの十字架を、心から賛美したいのです。

 

② 十字架上の七つの言葉

エス様は、十字架の上で7つの言葉を語られました。

それらの言葉は受難週に黙想されます。受難週の祈りの集まりごとに一つずつ取り上げて、学ぶ事がなされます。第二ポイントでは、それらの7つの言葉を紹介いたします。

エスの受難を覚える助けとなればと願います。

第1の言葉:「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」。

ルカ 23:34

エスが赦しを祈られた「彼ら」とは誰の事でしょう。三種類の人々が含まれているのです。

第一は、ローマの兵隊。第二はユダヤの指導者たち。そして第三は、私たちです。

この赦しの祈りは、当時のローマの兵隊たちやユダヤ人指導者だけでなく、私たちをも含んでいるのであります。

私も含まれている。私はそのことを、ミヤンマー宣教旅行を通して深く教えられた経験があります。

2006年から、茅ヶ崎教会はミヤンマー宣教を始めました。その時から毎年、現地でお会いしているザウ・センという方がおられます。お会いした頃は、教会の代表役員でした。ミヤンマーで2番目に大きいバプテスト教会です。信徒のお立場ですが、代表役員として6年間責任を持たれました。この方が、孤児院を2007年にスタートさせました。

ザウ・センさんは、毎回、現地の空港の送り迎えをしてくださり、シタプル教会で説教をする機会を私に与えてくださいます。

ザウ・センさんとお交わりをして、5年ぐらい経過した頃です。

私の中には、海外宣教をして、ミヤンマーの孤児を支援して、良いことをしているという自負がありました。

しかし、お交わりの中で、はじめてこのような話しをしてくれました。ザウ・センのお父さんは、カチン族のチーフ、つまり、部族長でした。彼の父親は、戦争中日本軍に抵抗しました。日本に侵略されないように戦ったのです。夜は、銃を持って眠り、民族のために、日本軍と戦った。そして日本兵に殺された。

何も知らずに申し訳なかった。そう言いました。

「あなたの生まれる前のことだよ」。彼は、笑ってそう言って下さいました。自分の父が日本人に殺された。そんな事を一言も言わずに、数年間お交わりをして下さったのです。

お前たち日本人を私は赦さないと言われたら、私は一言も返せません。日本人が、ミヤンマーを支援するのは当然だと言われたら、その通りです。しかしそのような態度を全く見せず、君の生まれる前のことだよ。そう言って、いつも私たちの働きに感謝しておられるのです。

私は孤児院を訪れる度に心に刻むことがあります。シタプル教会孤児院の前の道は、日本兵が行き来した道だったのです。今でもジャパン・ロードと呼ばれています。

ミヤンマー宣教をしている最初の5年間、私は何も知らなかったのです。「赦されている」ということを。

第2の言葉:「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

ルカ 23:34

これは一緒に十字架につけられた強盗の一人に対する救いの言葉であります。

「私を思い出して下さい」と犯罪人は願いました。

思い出して下さいとは、「覚える」という言葉であります。

神様に覚えてくださいと願うことは、救ってくださいと同じ意味であります。

私を導いてくれた教会学校の教師は、「中道君を覚えてください」とずっと祈り続けてくれました。「覚えてください」と私の名前を挙げて祈って下さった。そのありがたさを忘れることがありません。

第3の言葉:イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。ヨハネ 19:26 

それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。ヨハネ 19:27 

この言葉は、自分の死後、お母さんのことを心配されたイエス様が、弟子ヨハネに母を託す言葉です。

人は苦しいとき、自分のことばかり考えます。しかしイエス様は、自分の母のことを、家族のことを深く思いやられたのです。私たちも家族への思いやりを忘れてはならないのです。

第4の言葉:そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マタイ27:46

マルコ15:34も同じ言葉です。

聖書をよく知らない人は、この言葉を、イエスが神に対する信仰を捨てた言葉だと言います。しかしこれが十字架の上の7つの言葉の中心であります。

これは罪を犯したために、神から見捨てられた人間が叫ばなければならない言葉です。

本当なら、私が神から見捨てられ、この絶望の言葉を叫ばなければならなかったのです。

エスがこの言葉を、私の身代わりとして叫ばれたのです。

そのように叫ばれたイエスは、いつも私たちと共にいて、私たちを決して見捨てることがないのです。

第5の言葉:そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。ヨハネ 19:28 

十字架の上で、血を流された主イエスののどの渇きは、大きかったと思います。同時に、私たちの心の渇きを身代わりに受けられた言葉としても理解することができます。

第6の言葉:すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。ヨハネ 19:30 

これは完了した。英語では、It is finished!(イット・イズ・フィニシュド)

十字架の上での贖いがすべて完成したという勝利の叫びです。

第7の言葉:そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。ルカ 23:46 

エス様にとって、死は眠りでした。十字架の上で死刑にされるという悲惨な最期であっても、イエス様は、いつものように眠りにつかれたのです。

46節の「父よ、私の霊を御手にゆだねます」は、ユダヤ人の母親が子どもを寝かしつける時の言葉で、私たちの「おやすみなさい」にあたる言葉です。

「私の霊を御手に委ねます」は、詩篇31:5の言葉からの引用です。

詩 31:5 わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。

ユダヤ人たちは、この言葉を一日の終わり、つまり午後3時の祈りの時に唱えたのです。

エスは、33年の生涯の間、毎日この夕べの祈りを献げて、一日の終わりを迎え、眠ってこられたのです。そして、息を引き取るときにも、いつもと同じように「おやすみなさい」という言葉を唱えられたのです。

十字架の上で、自分の命が終わろうとするときにも、父の腕の中に抱かれ、夜休むように、「私の霊を御手に委ねます、お父さん、おやすみなさい」と言って、この地上を去られたのです。

普通力と言うことを茅ヶ崎教会のテーマに掲げた年がありました。

エス様は、十字架の上でも、いつもと同じようになさったのです。

今、コロナウイルスの感染拡大という危機の中にあります。

私たちは、このような危機の中におりますが、いつもと同じように、主を見上げて過ごしたいと思います。

お祈りしましょう。