2021年3月21日の説教要約 「十字架を誇りとする」

2021年3月21日の説教要約

      「十字架を誇りとする」  中道善次牧師

                            ≪ガラテヤ6:14≫

 

今日は、使徒信条の中の「十字架に付けられ」という告白を皆様と共に学びたいと思います。

3つのポイントからお話しします。① 身代わりの十字架、② 共に付けられる十字架、③ 血を流す十字架

三つのポイントと関わりのある歌詞の含まれる三つの新聖歌を紹介します。

身代わりの十字架は、新聖歌112番、♪カルバリの十字架、わがためなり♪。

共に付けられる十字架は、新聖歌111番、♪十字架、十字架、そこに我の罪も共に死せり♪。

血を流す十字架は、新聖歌235番、♪力ある主イエスの血、受けよ、今、受けよ♪。

友人のカトリックの信仰者は、賛美歌の歌詞からメッセージを聞き取ることがしばしばあると私に言っておりました。確かに賛美歌の歌詞は、神学的にもよく出来ております。

 

①身代わりの十字架

使徒信条では、「十字架に付けられ」と短い一言があるだけです。

使徒信条の解説や説教を見ますと、その多くがガラテヤ信徒への手紙6章13節を示します。

ガラ 6:13 キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました。「木に掛けられた者は皆、呪われている」と書いてあるからです。

身代わりの十字架、何度もこの言葉を聞いてきたのですが、この言葉をより具体的にいうなら、罪の刑罰をイエスは、十字架の上で、私たちの代わりに受けて下さった。

その罪の刑罰は、神から呪われることであり、死ぬことであります。

まず呪いについて。神からの呪いを聖書の中で最初に受けたのは、弟を殺したカインです。創世記4章に出て来ます。

「のろい」とは、神がおられる場所から引き離されることであります。

創 4:16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ。

神が共におられることの平安や祝福を味わったことのない者にとっては、神がおられる場所から引き離されることの厳しさは、よく分からないのです。しかし弟を殺したカインは、その恐ろしさをよく知っていました。

また、私たちの身代わりに十字架につけられたイエスは、それを最もよく分かっていたのです。その叫びが、マルコ 15:34 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」であります。

これが、神から見捨てられる者の叫びです。イエス・キリストは、私たちの身代わりとして呪われたのです。神から見捨てられたのです。

呪いについて、別の角度から申します。それは、自分で自分を呪うことであります。それは次のような言葉です。「自分の人生は、何をやってもうまく行かない」と思うこと、言うことであります。

木にかけられる者は呪われる。私たちのために、身代わりになって十字架という木の上に掛けられたお方は、自分自身を呪ってしまうような人生を送る私たちを救い出して下さるのです。

もう一つの身代わり。それは罪の結果として死ぬこと。それを身代わりに受けて下さったことです。

聖書は告げます。ローマ 6:23 罪の支払う報酬は死です。

罪を犯した人間は全て死ぬのです。罪を犯した結果、死ぬことを、イエスは、身代わりに負って下さったのです。

だからもう、私たちが罪に定められることはないのです。

 

②共に付けられる十字架

小林和夫師著「二つの十字架と御言葉による聖霊経験」の中の「二つの十字架」という説教には、身代わりの十字架だけでなく、もう一つの十字架の意味が述べられています。それが共に付けられる十字架です。

それを新聖歌111番は歌っているのです。♪十字架、十字架、そこに君は、つきて死にたまえり、 十字架、十字架、そこにわれの 罪も共に死せり♪

エスの十字架の上に、私の罪も釘づけられて死んだというのは、私たちの自我のことです。

その自我とは、アダムが罪を犯した罪が転嫁されたことであります。転嫁される罪を原罪、オリジナル・シンと言います。原罪は、全ての人に転嫁されたのです。罪の転嫁の結果、私たちには、自我という自己中心が心の中にあるのです。

しかし、イエス様が十字架につかれたとき、アダムから転嫁された原罪もともに十字架に釘付けられたのです。パウロはそのことを新約聖書で、語っております。

私は、この説教を聞いたとき、アダムからの罪が転嫁されたというのなら、それは自分ではどうすることも出来ないではないか。自分の努力では、どうにもならない。自分の手の届かない領域のことではないか。しかし、そこで気がついたのです。自分の手の届かないところのことを、今から2000年前に、イエス様は十字架の上で処理して下さった。

十字架は、それほどに偉大なのです。自分では手の届かない罪さえも、すでに処理されていた、解決されていたのです。

そのことを、あるドイツの説教者は次のような表現で語ったのです。

私たちが思っているよりも、もっと多く救われている。

言葉を換えると、私たちは自分が理解しているよりも、もっと大きく、深く救われているのです。

今日の聖書朗読の箇所は、十字架を誇りとする、であります。

ガラテヤの教会では、十字架だけではなく、それと共に、旧約聖書の儀式である割礼を受けることが大切なのだと主張しました。そのような人々に対して、パウロは、十字架だけで十分なのだと言いました。そして彼は言ったのです。私にとって、誇りとするものは十字架以外にない、と。

 

③血を流す十字架

車田秋次先生は、十字架で一番大切なことは、血を流すことであると言われました。

だから他の死刑方法ではいけなかった。他にもローマでは残酷な死刑方法があったようです。しかし血を流す死刑は十字架でありました。

血を流す大切さは、旧約聖書出エジプトの救いと繋がるのです。出エジプトの時、小羊が殺されて、その血が入り口の両脇の柱と鴨居に塗られ、イスラエルがエジプトから脱出したように、私たち人類が、罪から解放されるためには、神の小羊であるイエスの血が流されなければならなかった。

旧約聖書では、年に一回の「贖いの日」が記されています。レビ記16章です。それは動物が殺され、その血を大祭司が、至聖所と言われる、神殿の奥に入って、契約の箱の上の部分に血を注いで、人々の罪の赦しを祈る儀式であります。

十字架にかかられたイエス様は、旧約聖書の贖いの日の儀式を、一人二役で成し遂げられたのです。

一つ目の役割は、イエスは十字架で殺されて血を流されたことです。

二つ目の役割は、大祭司が動物の血を携えて至聖所に入り、契約の箱の上に血を注ぎかけて、贖いの祈りをしたように、イエスは、ご自分が流された血を携えて、天の至聖所に入られ、そこで永遠の贖いを成し遂げられたのです。

聖書では、血を流すことの意味を次のように言うのです。

血は命であるから贖うことが出来る。血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない。

聖書は告げます。

ヘブ 9:13 雄山羊や若い雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖別し、その身を清めるとすれば、

ヘブ 9:14 ましてや、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。

動物の血でさえも、清める力がある。人間の献血でさえも、人を生かす力がある。

ましてや、イエスの血は、私たちを救い、清め、生ける神に仕える者とする力があるのです。

このイエスの血の力を受け取るために、イエスの血潮の力を賛美することが大切です。