2021年3月14日の説教要約 「イエスの受けた苦しみ」

2021年3月14日の説教要約

 

    使徒信条 「イエスの受けた苦しみ」  中道善次牧師

 

今日は、使徒信条の中の「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という告白を学びます。

 

①ピラトの名前を出す意味

ポンテオとは総督という意味です。ですから総督ピラトという表現も数多く出来ます。

使徒言行録の中には、パウロの裁判に関わった総督が二人います。ペリクスとフェストです。総督ペリクスという表現がありますが、ポンテオという表現はありません。

聖書の中でポンテオという表現があるのは、以下の3カ所。協会共同訳ではポンティオです。

テモ1 6:13 万物を生かす神の前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で・・・

ルカ 3:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、・・・

使徒 4:27 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、・・・聖なる僕イエスに逆らい、

ローマの委託を受けて、ユダヤの治安維持を命じられたのが総督ピラトでした。

 しかし聖書を読んでいると、使徒信条でピラトがキリストを殺した張本人のように言われることは、ちょっと違うのではないかと感じることがあります。ある教会の方は、毎週、使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と繰り返し言われるのは、かわいそうだ。そう言ったそうです。

 総督ピラトは、ユダヤ人から「十字架につけろ」と迫られて、やむにやまれず、決断した。福音書を見ると、そのように読むことが出来ます。

マタイ福音書27章18~19節、23~24節を御覧下さい。

またヨハネ福音書では、三度もピラトは、「イエスに罪を認めない」と言っております。

そしてピラトは恩赦をイエスに与えようとしましたが、ユダヤ人はそれを拒否して、バラバを許せと叫んだのです。福音書の記事を読む限りでは、ピラトは心を痛めながら、イエスを十字架に付けた、付けさせられたと理解することが出来ます。

 しかしヨセフスという歴史家によりますと、ピラトは優柔不断な男ではなく、ピラトは権力欲の強い、残忍な人物だったようであります。

 こういうエピソードがあります。ピラトは自分が総督として着任するとき、軍旗を掲げて行進しました。それは支配国ローマの旗であります。そのことでユダヤ人の非常に強い反感を買いました。ユダヤ人は、抗議行動として、座りこんで5日間のデモを行いました。それに対してピラトは激怒して、みなの首をはねると言いました。実際に兵士達が首をはねようとしました。ピラトの考えの中には、そのような脅しをすれば、みんな恐れて引っ込むだろうと考えていました。一人や二人殺せば、恐れをなすと思っていました。ところがユダヤ人は誰一人、びくともしないで首を差し出したというのです。そこでピラトは、ユダヤ人に恐れをなし、強行政策を引っ込めてしまったのです。

またもう一つの背景がありました。ピラトは、ローマ皇帝の一人の高官に取り入って、ユダヤ総督の地位を得たのです。ところが自分の友人である高官は、ローマ皇帝からその職を解かれた。だからユダヤ人から、カイザルに訴えるぞと言われると、自分もまた、職を失うかもしれないと思ったのです。

ピラトは、イエスを死刑にする理由がないことは、よくわかっていました。しかしユダヤ人を怒らせて、自分が得することは何もない。自分の総督としての地位を守るために、彼は、正しいと思ったことを貫かず、ユダヤ人が要求するままにイエスを死刑にしたのです。

そのピラトの姿の中に、私たちの姿が映し出されているのではないでしょうか?

エスを苦しめ、十字架に付けたのは、ポンテオ・ピラトと私たちは告白します。しかしピラトという人物の中にあった同じ罪が、私の内側にあることを、この告白の中で認めることが大切であります。

 

②受け身であったイエスの人生

使徒信条には、イエスはマリアから生まれて、すぐにポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられると告白します。使徒信条の中には、イエスの人生について触れられていないのです。

ハイデルベルク信仰問答の解説には、次のようにあります。イエスの一生が「苦しみ」という言葉に象徴されている。だから「苦しみ」という言葉がイエスの一生を表現しているのだというのです。

「苦しみを受け」と告白する信徒信条は、ラテン語で書かれました。ラテン語では、苦しみ、受難は「パッスス」という言葉であります。「パッスス」という言葉は、受け身の言葉であります。何かを被った。そのような受け身の体験を表す言葉であります。ですから、必ずしも苦しみだけを経験したという意味ではないのです。自分が受け身で巻き込まれてしまう全ての経験であります。その中には、喜ばしいことも含まれるのです。しかし、その多くは「苦しい」ことである。ですからパッススが、苦しみという意味になったと言われるのです。

現代であっても、親が決めた人生を、決められたとおりに従って歩む人がいます。そのような受け身の人生には、苦しみが伴うことがあります。

エス様もまた、受け身の人生を送られたのです。父ヨセフは早くになくなったと思われます。イエスは、大工の仕事をして、母や弟妹たちを養いました。30歳で宣教に立ち上がった後、家族から理解されず、周囲から受け入れられず、お前は一体どうしたのかと言われたのです。宣教に出かけてからも、人の子は、枕するところもない。孤独や貧しさを味わわれたのです。そして弟子の裏切りにあり、人々からあざけられ、十字架について、命をお捨てになられました。

受け身の人生、苦しみの人生を味わわれたのです。私は、イエス様が、受け身の人生を強いられてきた人々の身代わりとなって下さった。受け身の人生で苦しむ人々の身代わりとなられたと思うのです。

 

③主の僕を動かした情熱

苦しみはパッションである。受け身と共にもう一つの意味があります。それは情熱であります。

これもまた受け身であります。私たちは、「何かに突き動かされるように進んでゆく」という表現を使います。情熱というパッション、受け身でありながら、自分もそれを受け止めて、突き進んでゆく。

パッションという言葉は、受け身。苦しみであり、また情熱。そこには複雑に入り組んだものがあるのです。私が与えられた使命はこれだ。そこには苦しみが伴うことは分かっている。しかし私はそうしなければならない。それが私の喜びとするところである。

エス様にとって、十字架に向かって進んで行く事はまさにそうだったと思います。

エスの弟子の一人であるパウロも同じでした。パウロは、神様から与えられた情熱というパッションに動かされて、苦しみを受けることも厭わないで、進んでいったのです。

使徒言行録20章22~24節には次のような言葉があります。

使 20:22 そして今、私は霊に促されてエルサレムへ行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。

使 20:23 ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。

使 20:24 しかし、自分の決められた道を走り抜き、また、神の恵みの福音を力強く証しするという主イエスからいただいた任務を果たすためには、この命すら決して惜しいとは思いません。

パウロは、聖霊に情熱を、パッションを与えていただいたのです。それはミッション、使命と言っていいでしょう。情熱を込めて自分に与えられた使命を果たす。そのためには、苦しみが伴うのです。

パウロはこの言葉を言った後、多くの人から、エルサレムに行かないでほしいと引き留められた。苦しみが待っていると預言を受けたのです。パウロ愛する人々は涙を流して、引き留めたのです。

それでもパウロには、イエスのために動かされる情熱が強かったのです。彼らに言うのです。私の心をくじかないでください。私はイエスの名のためなら、エルサレムで死ぬことさえ覚悟しているのです。

神様から使命が与えられれば、情熱をもって取り組むことが出来るのです。それにともなう困難も乗り越えてゆけるのです。