2024年2月4日の説教要約 「エルサレムへの旅」

2024年2月4日の説教要約

    「エルサレムへの旅」    中道由子牧師

 

パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。》(使徒言行録21章1~14節)

 

1、御心はどこに

第三伝道旅行を終えたパウロが、エルサレムに上ろうとするところです。

それは、エルサレム献金を届けるためだけでなく、もう一度エルサレムにいるユダヤ人の同胞に、イエスが救い主であることを語ろうと考えていたからでした。

これはパウロの心からの願いであったのです。

 しかし、途中立ち寄ったティルスという所にいた弟子たちは、パウロに命の危険があるので、エルサレムへは行かないようにとしきりに忠告しています。

しかもそれは御霊に示されたことであったと言います。

しかし、パウロは「今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。」と言っています。(20章22節)

カイサリアに到着すると、預言者アガボも同じように警告し、カイサリアの弟子たちも、しきりにパウロを止めようとしました。

にもかかわらずパウロは、エルサレムに上るのです。

 しかし、パウロは神の警告は受けても、逆らってはいないのです。

ですからここでの警告は、パウロに注意を促すと同時に、パウロと共にある者に対し祈りを求めるものであったと言えます。御霊は彼らにパウロの危険を知らせ、彼のために祈るように示されたのではないか、と思うのです。

実際、パウロはこの後、エルサレムで逮捕されるのですが、また釈放されています。

そして、エルサレムで証をした後、彼は主の声を聞きます。

23章11節「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」

 ですから、エルサレムに行くことは、主の御心なのですが、21章の時点では、いろんな人が主の声を聞き、パウロを引き留めたい思いと混同していたことは明らかです。

 主の御心ですから、と言われると私たちはあきらめざるを得ない現実があります。

しかし、本日の聖書箇所を通して、神の栄光と人の願望が重なり合うところに御心があることがわかります。人々はパウロの命を心配しているのです。

愛する人を失いたくない、人として当たり前の感情です。

パウロの信仰はその上を行っているのです。

十字架の死に至るまで神の御心に従順であられたキリストと同じ道を選んだのでした。

ここまで徹底して神の使命に従い通せたパウロは、本当に使徒として幸せな人であり、彼の人生は満ち足りていたということができます。

 私たちの生き方、願望の中に、決して背伸びをしないで、心から自分を無にして主に従いたい方向づけがあるなら、それは何よりその人にとっての幸せであり、他の人が何と言おうとも、主の御心を歩んでいると言えるのではないかと思えるのです。

 

2、ユダヤ人にはユダヤ人のように(21:17-40)

エルサレムの長老たちは、パウロの宣教報告を聞いて神をほめたたえる一方で、律法に熱心なユダヤ人たちが、その働きを認めるかを心配します。

パウロが、律法を否定していると誤解する人々がいるからです。

長老たちは、パウロが余計なトラブルに巻き込まれないように心を配り、誓願の儀式に参加し、さらにそのためにお金を出すように促しています。パウロは素直に従っています。

それは、主イエスは、律法を成就し、完成するために来られたからです。

彼はユダヤ人の救いを心から願っていたからでした。

ユダヤ人は、ローマの支配下にあっても、ユダヤ教を守る信仰ははっきりしていましたし、彼らの宗教心に触れることは、ユダヤを統治していくことを危うくすることをローマ総督たちも感じていました。

 しかし、私たち日本人にそうした確固としたものがあるでしょうか。

仏教は仏への信仰だけでなく、国を統治するために活用できる画期的な教えが含まれていました。統治されていた指導者に従うことが徳とされてきました。

日本人にとっては国や指導者のために散り方、死に方、死に場所を求める生き方が美しいとされてきました。

多数に従うことがよしとされ、「右へ倣え」の意識が強い、日本人には日本人のようになることはどういうことなのか? 

神は、私たち一握りのクリスチャンに、パウロが律法の誓願の儀式を行ったように知恵を与えてくださいます。

 

3、エルサレムでの証しの機会

しかし、この誓願の儀式がアジアから来たユダヤ人の目に留まり、訴えられます。

彼らは勘違いをしたのですが、町中が大騒ぎとなり、パウロは殺されそうになります。

ここを読むと、パウロエルサレムに行くのはやはり止めておいたほうがよかったのではないか、とはらはらします。

 この時、パウロを殺そうとするユダヤ人たちの騒動の報告を聞いたローマ軍の千人隊長と兵士たちが駆けつけて、パウロは危機を逃れます。

そして、この千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、今や自分を殺そうとする同胞のユダヤ人に向かってヘブライ語で話す機会を得ます。

私たちの人生に、想像以上に悪い結果となり、困惑した事態に追い詰められることがあるでしょうか。

パウロはそのような時に、自分の過去、主イエスとの出会い、異邦人クリスチャンのアナニヤの祈りを通して、目が開かれ、新しい人生を歩むようになったことを大胆に語ったのでした。