2023年9月3日の説教要約 「心の目が開かれて」

2023年9月3日の説教要約

                 「心の目が開かれて」   中道由子牧師

《すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」》(使徒言行録9章1節~19節)

 

1、倒れたサウロ

 ユダヤ人のサウロは、主の弟子たちに対して脅かしと殺気に満ちていました。

彼はエルサレムから聖徒たちを追い出しただけでなく、迫害によって散らされた主の弟子たちまで捕らえようとダマスコに向かいます。

彼は自分のやっていることは当然正しいと思っていたのです。

教会を迫害していたことさえも自分はよいことをしていると思っていた。

人を迫害し、殺していても律法からすると当たり前のことをしていると思っていた。

ステパノが殉教した時もパウロは関わっていました。

人生の的がはずれているのです。

罪、ハマルティア、とは的が外れて生きていることです。

自分の目には正しいと思っていても、神様の目から見て的が外れている。

 今私たちが、聖書を読むと、サウロの生き方は的が外れていることはわかります。

しかし、彼を含め、当時の誰の目にもそれがわからなかったのです。

ここで、サウロにイエス様が現れて、「どうして自分を迫害するのか」と尋ねられた。教会を迫害することはイエス様ご自身を迫害していることに他ならない、私があなたの人生にもっている計画は、そんな的外れの気狂いじみたものではない、と。

サウロは自分のために生きてきました。

しかし、天から光が射し、イエス様の声を聞いた時、

4節「サウロは地に倒れ」とあります。

サウロのこれまでの人生で、「倒れた」という経験があったでしょうか?

挫折などという言葉はそれまでの彼にとって無縁であったでしょう。

その彼が、ダマスコの近くで地に倒れたのです。

それは、3節「突然、天からの光が彼の周りを照らした」からでした。

その光は、太陽よりも明るく輝く、神ご自身の栄光の輝きであり、また復活のキリストの輝きでもありました。

愛する皆さん、私たちが人生で倒れるような経験をすることがあるでしょうか?

でもその挫折は、ただの失敗でも恥ずかしいことでもありません。

神様はあなたの人生に御計画をもっておられる。自分が計画していたものとは違うかもしれない、はっきり見えないかもしれない。

しかし、今まで一生懸命歩いてきた道が真っ暗にされて初めて、そこから新しい道がスタートしていきます。

 

 

2、立ち上がるために

 主はサウロを責めるために現れたのではありませんでした。

サウロは、栄光の主にお会いして、目は開いていても見えないという状態になってしまったのです。どうにかこうにか立ち上がり、人々に手を引かれながらダマスコへとたどり着いたのでした。思いもしなかった姿でダマスコに行ったわけです。

彼はそこで、9節「三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」

この盲目の三日間、断食の三日間は、サウロが真の意味で立ち上がることのできるために必要な、貴重な三日間でした。

彼は一切を退けて、ただひたすら深い悔い改めを持って祈っていたのでしょう。

「あなたのしなければならないこと」とイエス様が言われたのは何なのかと。

そして、彼の救いのためにここに用いられた人がいます。

サウロの回心のために手助けするようにと神が選んで派遣された人、ダマスコ出身の無名の弟子アナニヤです。

彼は迫害のためにユダヤにいられなくなって、ダマスコまで逃げてきていたのかもしれません。そのアナニヤに主はサウロを訪ねなさい、と言われます。

自分が逃げている迫害者の所に行きなさい、って、神様に言われるのです。

主はアナニヤにこれからサウロに与える使命を告げて、「お前にこの役目を頼みたい」と励まします。アナニヤはただ主の御言葉に従い、命じられたとおりにサウロを訪ねます。教会にとっては最大の敵であるサウロを「兄弟」と読んだのです。

アナニヤは彼の使命を果たし、サウロの上に手をおいて祈りました。

サウロの目からうろこのようなものが落ちた。

そして彼は、神というお方の本質をつかんだのです。

私たちがイエス・キリストを信じ、救われるために祈ってくれていた人がいます。

これ以後、アナニヤの消息については聖書には書かれていません。

彼は大切な役目を果たしてくれました。

 

3、新しい使命

 サウロの人生は全く変えられました。

目が開かれたサウロは、さっそくダマスコで伝道を始めました。

ダマスコの諸会堂で「イエスは神の子である」と宣べ伝え始めた。

エスの御名を呼ぶ者たちをみな捕まえていただけではない、殺害しようとさえ燃えていた人物が、「イエスは神の子である」と証しさせるほどのものは何だったか?

それは、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせたのでした。

律法に通じていた彼は、聖書全体を貫いているキリスト論を展開させ、イエスがメシアであることを論証したのです。 そして、このサウロがローマ名のパウロとして、異邦人伝道という新しい使命に生かされていきます。