2023年9月10日の説教要約
「礼拝する場所は世界中に」 中道善次牧師
≪使徒言行録 7章44~50節≫
1、荒れ野の幕屋と神殿の違い
ステファノは、使徒7章37節から、話題を「礼拝」に移します。
37~43節は、荒れ野でイスラエルが行った偶像礼拝を語ります。
そして44節から、礼拝を献げる場所である幕屋について語ります。
荒れ野の幕屋の特徴が、45節にあります。それは可動式だということです。
使徒7:45 この幕屋は、・・・占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。
また、荒れ野の幕屋は、天にある幕屋のコピーであるというのです。
使徒7:44 これは、見たままの形に作るようにとモーセに言われた方のお命じになった通りのものでした。
ステファノは47節から神殿について語ります。
神殿は、石造りです。つまり移動しない。
この説教で、ステファノは、礼拝をする場所について、大胆なメッセージを語ります。それは幕屋の方が神殿よりも優れているというのです。それを48節から読み取ることができます。
使徒7:48 いと高き方は人の手で作ったようなものにはお住みにならない。
神様を礼拝する場所の基本形は、エルサレムの神殿ではなく、荒れ野の幕屋であるというのです。
ヨハネ黙示録に、次のような表現があるのです。
黙示15:5 この後、わたしが見ていると、天にある証しの幕屋の神殿が開かれた。
天にある神殿(聖所)は、「証しの幕屋」と呼ばれています。
何故、幕屋という言葉を使うのか?幕屋(テント)は、神と人が一緒に住む場所だからです。黙示録21章3節。
天幕で神と人が一緒に住み、神が人の目から涙をぬぐい取って下さる。それを黙示録は大切にしています。
そこに幕屋の優越性がみられるのであります。
石造りの神殿には、神は住まない。それがステファノの神殿を誇るユダヤ人に対する強烈なメッセージだったのです。
これは今の私たちの礼拝のスタイルの先取りのメッセージであります。
私たちも会堂を持っています。しかし会堂でなければならないとは言いません。
特にコロナの後、オンラインで礼拝を持ちます。自宅でも病室でも、どこでも神がおられ、神を礼拝するのであります。大切なことは、神は、あなたが礼拝する場所に、共におられるということであります。
2、エルサレム神殿神話
ステファノが、エルサレムの神殿をあまり評価しない、もう一つの大きな理由がありました。
それは、「神殿神話」といわれるものであります。
神殿神話が生まれたのは、BC701にエルサレムで起こった奇跡がもとになっております。
その聖書の個所を紹介します。
列王下 19:35 その夜、主の使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。
アッシリア帝国は強く、北のイスラエル王国、そして、その首都サマリヤを滅ぼしました。さらに南の王国ユダに侵入し、その町々を滅ぼしました。そして、最後に残っていたのがエルサレムでした。アッシリアの軍隊185,000人がエルサレムを包囲していたのであります。エルサレムは風前の灯火でありました。しかし、一晩のうちに天使によって、185,000の軍隊が殺されたのであります。
奇跡的にエルサレムが守られたのであります。
その時の感謝を歌ったのが、詩編46であると言われます。
詩46:2 神はわたしたちの裂けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
詩46:6 神はその中にいまし、都(エルサレム)は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
この素晴らしい奇跡は、ユダの人々に語り継がれていったのです。やがて100年ほどたつと、神殿神話というものが生まれたのです。それは、神がエルサレムの神殿におられる。この神殿がある限り、自分たちは大丈夫だ。いわゆる、迷信であります。
ゼデキヤという王様は、この神殿神話を信じていました。それで、預言者エレミヤに、奇跡をもう一度起こしてもらいたいという期待をもって、「主にうかがってください」というのです。
エレミヤ21:2 「どうか、わたしたちのために主に伺ってください。バビロンの王ネブカドレツァルがわたしたちを攻めようとしています。主はこれまでのように驚くべき御業を、わたしたちにもしてくださるかもしれません。そうすれば彼は引き上げるでしょう。」
残念ながら、奇跡は起こらなかったのです。そしてエルサレムは滅ぼされ、神殿も滅ぼされました。
しかし神話だけは、その後も残りました。バビロンから帰国して、もう一度再建された神殿をエルサレムに住むユダヤ人は、偶像のようにあがめていました。
エルサレムという場所に神殿がある限り、自分たちは大丈夫だ。そのように思っていたのでした。
そのようなユダヤ人の迷信をステファノは、ナンセンスだというのです。
外国に住むギリシア語を話すユダヤ人にとって、世界の神様はどこにでもおられる。
第一ポイントで、黙示録15章で紹介したことと同じことが、ヘブライ書でも言われています。
天にあるのは、神殿ではなく幕屋である。つまり神様は、動かすことの出来ない神殿よりも幕屋を礼拝所として選んでおられるのです。
ヘブ 8:2 人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。
しかし離散のユダヤ人は、エルサレム神殿ではなく、それぞれの地域で礼拝を守っていたのです。それがシナゴーグ(会堂)という場所でした。そしてギリシア語で礼拝をしていたのです。
世界という広い目を持つステファノは、ユダヤの人々を思い込みから解放し、どの場所でも神様はおられる。どの場所でも礼拝ができると語ったのです。
3、霊と真理をもって行う礼拝
ヨハネ4章で、イエスがサマリヤの女性に言われた有名な言葉があります。
ヨハネ4:20 わたしどもの先祖(サマリヤ人)はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがたは(ユダヤ人)、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
ヨハネ4:21 イエスは言われた。「婦人よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
ヨハネ4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
エルサレムに住むヘブライ語を話すユダヤ人だけでなく、自分たちの信仰こそが正統的だと思っていた別の人々がいました。それはサマリヤ人でした。彼らは、旧約聖書の中のモーセ5書だけを聖書として認めていました。彼らの宗教をサマリヤ宗教といいます。サマリヤ人は、自分たちこそ、正統的な信仰者だと思っていたのでした。そして彼らの礼拝する場所は、サマリヤにあるゲリジム山だったのです。
礼拝するある特定の場所を大切にする宗教があります。そしてそこへの巡礼を勧める宗教があります。
ユダヤ教の中心地エルサレムも、巡礼の対象であり、中心聖所の一つでありました。
しかしイエスは場所を超えた礼拝を教えたのです。それが霊と真理による礼拝です。
口語訳聖書では「まこと」とひらがなで訳されていました。
しかし新共同訳では、それを「真理」と訳しました。それは真理である聖書の御言葉を指しているのです。
そして「霊」とは、「霊に導かれる」礼拝であります。聖霊なる神が、そこにおられ、礼拝を受けてくださる。また同時に、私たち礼拝を聖霊が導いて下さる。そのような礼拝であります。
昔の礼拝は、儀式が中心でありました。決まった形式で進められたのです。聖書の御言葉を解き明かすことではなく、犠牲を献げるというスタイルでした。
しかし、プロテスタント教会の礼拝は、御言葉が中心であります。
イエスが語られた、礼拝の本質、それをステファノは受け継いだのです。
そして、聖霊の導きと御言葉の真理による礼拝を私たちも大切にしてゆきたいのです。