2023年8月20日の説教要約 「聖霊の導かれるままに」

2023年8月20日の説教要約

                 「聖霊の導かれるままに」     中道由子牧師

 

《彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。》(使徒言行録8章26~40節)

 

1、エルサレムからサマリア

 ステファノの殉教が導火線となって、福音は驚くべき勢いで前進していきます。

8章1節「エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤサマリアの地方に散っていった。」とあります。

エルサレムから迫害によって追い出された名もない信徒たちは、恐れおののいて隠れながら逃げ去ったのではなくて、彼らは大胆にキリストの福音を宣べ伝えながら散って行ったのでした。

復活された主イエスが昇天される前に、1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と語っていかれました。

キリストの福音はついにユダヤを出て、隣のサマリアへ行ったのです。

主イエスが地上におられた時も、ユダヤ人とサマリア人とはあまり親しい関係にはありませんでした。そのような地に福音が入ったのです。

しかも、サマリアの人々は喜んで、熱心にフィリポの話に耳を傾けたのです。

毎日のように、心を一つにして集まり、神を賛美していた教会員たちが、遠い地方にそれぞれ散っていかなければならないことは、どんなに寂しくつらかったことでしょう。

しかし、散らされていった人たちは、その行く所行く所で福音を告げ知らせながら巡り歩いたのです。

目の前に知らない道が広がったということは、神様がこれまでの導きとは異なる新しい命令を与えてくださったということです。

私たちの前に置かれた不透明な未来は、神様の新しい命令を聞くチャンスです。

 

2、魔術師シモンの過ち

 福音と聖霊は一緒に働きます。「サマリアの人々が神のことばを受け入れた」というニュースはエルサレムに伝わりました。それで、ペトロとヨハネサマリアの人々の信仰と救いを確かめ、更に深く信仰の教育を行うため、視察のためにサマリアの町に派遣されてきました。彼らはフィリポから水によってバプテスマを受けていましたが、ペトロとヨハネが彼らの上に手を置くと、彼らも聖霊を受けました。

 その様子を魔術師シモンは見ていた。シモンにはそれがとてもうらやましく、また魅力的に、むしろ魔力的に見えたのでしょう。それで、シモンは19節「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」と、使徒たちの所に金を持って来て頼んだのでした。

聖霊の力を金で売り買いできると考えていたのです。

 ペトロはシモンに対して厳しく叱責します。

聖霊を受けるためにへりくだって頭に手を置いて祈ってもらおうとしないで、一足飛びに「私が手を置けば、誰でも聖霊を受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」と求めたのです。

聖霊はものではありません。ただのパワーでもない。

三位一体の神であり、人格を持っておられるお方であります。

教会は聖霊の住まいであり、また私たち個人としても、聖霊の証印を押されている、お金には変えられない聖霊様を内に宿していることを覚え、このお方を尊び、歩んでまいりましょう。

 

3、エチオピア人の回心 

  サマリアで大きな成果をあげていたフィリポに天使が声をかけます。26節「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と。

するとそこに、エチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て帰る途中だった。

29節に「“霊”がフィリポに『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った」のです。神は求道者であるエチオピアの宦官の心に直接働きかけ、イエスを信じる心備えを与え、もう一方で、信仰者であるフィリポに語り掛け、み言葉を語りなさいと命じたのです。

私たちも信仰を持つに至った過程を振り返ってみると、きっとそこに神の不思議な導きがあったことを見出すに違いありません。自分が救われるために誰かが導かれている。

聖霊はその人にフィリポを会わせてくださったのです。

 エチオピアの女王カンダケの高官という立場の彼は、女王に仕えるために去勢され宦官となった。いくら女王の財産全部を管理していたとはいえ、その人生は満たされることはなかったでしょう。

聖霊の導きによって、フィリポが近寄ると、イザヤ書53章を彼は読んでいたのです。

フィリポはこのキリストを宦官に説いたのです。羊のように屠り場に引かれていった小羊、卑しめられ、口を開かず死という裁きが行われた。それは、自分のためであったことが、この宦官にわかったのです。

自分の救いがここにあることを知った彼は、36節「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」と言うのです。

今会った人が主を信じて、洗礼を受ける。ここに主の聖霊の御業、御言葉の力、導き手を備えておられる神の働きを見ます。

彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去り、次の宣教地に導きます。

そして、この宦官はもうフィリポの姿を見なかったけれど、喜びにあふれて旅を続けました。

私たちもひたすら聖霊の導きのまま、その後を追いかけて行きましょう。