2023年6月4日の説教要約
「新しい命」 中道由子牧師
《神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。》
(使徒言行録2章1~21節)
1、力を受ける道
この使徒言行録は、聖霊の書とも言われます。ここには、聖霊を受けたペテロやパウロがイエス・キリストを宣べ伝えていく宣教の業が書かれているように思いますが、実は聖霊なる神が主導権、イニシアティブをとっておられ、主の弟子、使徒たちはその聖霊のなさる業にひたすらついて行っている。聖霊言行録と題するべきところです。
1章3節から復活されたイエス様が40日の間、弟子たちに現れて、神の国について語られました。主が十字架にかかられてから弟子たちは、散り散りになりガリラヤに戻って漁師をしていた者もいました。そんな彼らに4節で「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と言われました。
主の十字架、葬り、復活、そして復活の主と共にあった40日間は、弟子たちにとってはまるで夢を見ているような日々であったでしょう。
でも、夢ではない。現実なのです。彼らは今、初めて主のみ言葉とその約束を思い出して、心を一つにして祈りに専念するのです。
キリストの復活以後の40日と、それからの10日間の後、ペンテコステが起こるのです。五旬節と言うのは、主が復活してから50日目に聖霊が注がれた日なのです。
そこから推測すると、弟子たちを初め、母マリアも女たちも皆が祈った10日間でした。右往左往しないで、主がおっしゃったとおり皆で祈ったのです。
私たちも聖霊を待ち望む、主の力をいただきたい。
特に、失敗したり、落胆した時はそうです。
自分の力に、技量に、知恵を頼みとしないで、主に祈り求めることです。
2、聖霊が注がれる
五旬節となり、皆が集まって祈っている時、聖霊が天から降りました。
それは激しい風のようであったとあります。炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった、とあります。そして、他国の言葉で話し始めたというのです。
エルサレムには巡礼のために外国から人々が集まっていたのです。
ヘブライ語を知らない人がヘブライ語で福音を話し始めたり、神を賛美しました。
また、そこにいたいろんな国の人たちが自分の言葉で福音を聞いたのです。
福音を語るため、主の宣教のために外国の言葉を話すようになった、それが主がくださった聖霊の恵みであり、ここでは、それに伴う異言が与えられました。
そういう意味において、異言は力を持って言葉を語ることを委ねた、聖霊の働きであると言えます。力が与えられて、伝道できたのです。
2章17節~21節はヨエル書の預言でその預言がペンテコステにより成就したのでした。17節「若者は幻を見、老人は夢を見る」とあります。
若者は、神の器として生きていくために幻を見ます。
しかし、若者だけではない、宣教のための働きは聖霊により老人も夢を見ることができるのです。歳をとったからもう終わりではない。いつまでも夢を見続けることができる。
老人は天国を身近に感じて生きています。だからこそ、夢を見られる。
20節「主の偉大な輝かしい日が来る前に」とありますが、これは「主の再臨」のことです。この地上には、やがて最後の日が来ます。
この全世界のすべての地域にキリストの福音が宣べ伝えられて、主の民が世界中に誕生した時、主は再びこの地上に来られるのです。
現在キリスト教に対して固く門を閉ざしている国も、やがて開放する時が来るでしょう。すべての大陸に、キリストの福音は宣べ伝えられます。
そして、主の再臨がある時、21節「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」のです。二千年前のペンテコステの日にこの第一歩が始まりました。
人々が救われることを夢見たい、それほど素晴らしいことはありません。
3、三位一体の神
教会に来て、聖書を読み始めると神が三人いるのではないかという気持ちになりかねません。しかし、これは三人の神がいるというのではなくて、神は父、子、御霊という三つの人格において存在するお方であるというのが聖書における神なのです。
私たちは人間として一つの人格しか持てません。二つの人格を持ったら「二重人格」と言います。しかし、それは人間としては健全ではありません。私たちは一つの人格しか持てません。しかし、神は一つの存在でありながら、三つの人格をお持ちであられます。
父なる神は、救いの計画者であって、子なる神イエス・キリストは救いを十字架の上で実行するお方であります。
また、今は父なる神の右の座にいまして私たちのために執り成し祈ってくださる。
だから、私たちはイエス・キリストの御名によって祈るのです。
イエス様が十字架にかかり、復活され、昇天された、約束された聖霊を父から受けて注いでくださったのです。
子なる神、イエス・キリストは肉体を持っておられたので、イスラエルにおられたら、日本の私たちに会えません。制限を受けることをよしとされた。
しかし、聖霊なる神はいつも私たちと共にいてくださり、日本にいる私たちにも遠く離れた国でも同時に神のみわざを行われる。同時に祈りを聞かれる助け主です。
聖霊なる神により、私たちはイエスを主と告白し、クリスチャンとして歩めるのです。
祈りを助けてくれるのも、聖書が分かるように導いてくれるのもこの聖霊なる神です。
この三位一体の神のファミリーの交わりの中に、私たちは招き入れられているのです。