2020年5月3日 礼拝説教 「ヨハネのペンテコステ」 

2020年5月3日  礼拝説教

                              「ヨハネペンテコステ」   中道善次牧師

            <ヨハネ福音書 20章19~23節>

 

イントロ:おはようございます。今朝もご一緒に礼拝を守れる恵みを感謝いたします。

私たちの教会の「出前礼拝」は、チームで行っております。

4月19日は由子先生が、4月26日は照内先生がメッセージをしてくださいました。

また4月第四週目から、週の半ばの集会の代わりとして、賛美と祈りとメッセージの出前を行っております。お聞き苦しい所もあると思いますが、毎週、よりよい音がお届けできるように、努力しております。

さて今日は、復活節の第四主日です。メッセージの題を「ヨハネペンテコステ」としました。イエス様が復活された日の夕方の出来事から共に学びたいと思います。

私たちが、ペンテコステと言うと使徒行伝2章の出来事を思い起こすのですが、聖書の中には、ヨハネペンテコステがあるのです。今日はそのことについて共に学びたいと思います。

三つのポイントからメッセージを語ります。 ① ヨハネペンテコステ、 ② 臨在の訓練、③ ルカのペンテコステを意識する

 

ヨハネペンテコステ

アメリカの神学校で、新約聖書の授業を受けておりました時、教授が一つの質問をいたしました。

私たちは使徒行伝2章が、聖霊が弟子たちに与えられたペンテコステだと理解している。

そこをご紹介いたします。使徒行伝2章1~4節。

行 2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、

行 2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。

行 2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。

行 2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

この箇所を学者が専門的に言う場合、ルカのペンテコステ(Lukan Pentcost)と呼ぶのです。

続けて教授が言いました。次の箇所を君たちはどのように理解するのか。ヨハネ20:21~23.

ヨハ 20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。

ヨハ 20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。

ヨハ 20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

ここでイエスは弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を受けよと言われました。これが単なる象徴的行為でない限り、ここで弟子たちは間違いなく聖霊を受けているのであります。

こちらのほうを学者は、ヨハネペンテコステ(Johannine Pentcost)と呼びます。

教授はさらに続けました。ルカのペンテコステヨハネペンテコステ、弟子たちは聖霊を受けたのは、どちらなのか?これは神学生たちを困らせる、難しい質問でありました。

神学校で学ぶ学生の優等生の答えがあります。それはルカとヨハネ、それぞれの福音記者の視点の違いであるから、どちらも聖霊を受けているのだ。

しかし私は、牧会者、また説教者として考えました。さらに自分の体験、また他の方々の信仰体験からヨハネペンテコステとルカのペンテコステの二つを次のように理解しているのであります。

ヨハネが描いたペンテコステは、イエス様を信じた時に私たちの心の内に聖霊がお住まいになることであります。

私たちが、「イエスは主」という信仰告白をするとき、確かに聖霊さまは心の中におられるのです。

しかし私たちの自覚としては、聖霊がおられることを十分認識していない場合が多いのです。

これに対して、ルカが描いたペンテコステは、弟子たちが、約束された聖霊を自覚的に求めたときに与えられたのです。弟子たちは、聖霊を受けたというはっきりとした体験を得たのです。

加藤常昭という説教者は、この二つのペンテコステを次のような流れの中で理解しておられます。

ヨハネ福音書における聖霊降臨(ペンテコステ)と呼ばれるものがあります。それは、主イエス聖霊降臨日の出来事(ルカのペンテコステ)に先立って弟子たちに、いわばその備えのために、その霊を注いで下さった物語である。」

私の18歳の時のことをお話しします。聖霊の理解と聖霊体験は次のようなものでした。聖霊の満たしが欲しい。洗礼を受けて一年ほどして、私は強くそれを願うようになりました。その時の私の自覚は、私の中には聖霊様がいない。だから人前で自分がクリスチャンだと言うのが恥ずかしいし、証しも出来ない。ペンテコステの弟子たちのように福音が語れるように、聖霊を下さいと求めたのです。

そして聖霊の満たしの経験が与えられました。自分は聖霊を受けたのだと自覚をいたしました。

そしてそれから聖書学院に入り、聖書の勉強をしました。自分の18歳の時の聖霊の求めのことを振り返り、自分が大きな誤解していたことが分かりました。私の心の内には、イエス様を信じたときにすでに聖霊様が住んでおられたのだ。私は、聖霊を持っていなかったのではない。ただ聖霊がおられることを十分に意識していなかった。私がないと思って求めていたのは、大胆さや力の顕れと言われるもので、それは「聖霊の満たし」あるいは「聖霊バプテスマ」というものでした。

弟子たちはこの時、イエス様に息を吹きかけてもらったのに、聖霊を受けたという十分な認識を持たないでおりました。しかし心の中に与えられた聖霊が、彼らを10日間の祈りへと導いていったのです。

先行的恩寵という言葉があります。神様の恵みが先に行くということであります。

これを言いましたのはジョン・ウエスレーです。ウエスレーは、救いに関して、先行的恩寵を言いました。先行的恩寵とは、私たちが救いに預かる前から、私たちを救いに導かれる神の恵みのことであります。

自分が教会に来るようになる前に、自分では気がつかなかったけれども、実は聖霊様が導いておられた。そのようなあとになって気づくような聖霊のお働きがあるのです。

同じ先行的恩寵という言葉を、申し上げてきたようにペンテコステについても使うことが出来ると思います。内におられる聖霊が、求めを起こさせ、祈りに導かれたのであります。聖霊様のお働きの素晴らしいことは、私たちが聖霊というお方を意識しないときであっても、確かにあるのです。

ヨハネが描きました11弟子に聖霊が注がれたペンテコステ

それは激しいペンテコステではありません。誰もが持つことが出来る聖霊様の臨在であります。そしてうちにおられる聖霊様が、彼らを祈りへと導かれたのであります。

あなたのうちに、あなたの自覚が十分でなくても確かに聖霊様がおられることを覚えて下さい。

うちにおられる聖霊様が、あなたの聖霊の理解と聖霊の体験をさらに豊かにされますように。

 

②臨在の訓練

エス様が復活されてから40日の間、イエス様はずっと弟子たちと一緒にいたわけではありません。

私の数え方に間違がなければ、7~8回ほどであります。

女性たちとの出会いがあります。これはマタイ、マルコ、ルカに同じ記事として載っています。

ガリラヤでの大宣教命令があります。マタイに載っており、マルコにもあります。

エマオ途上の二人の弟子に顕れた物語は、ルカにあります。

弟子たちの前で食事をされた物語が、ルカにあります。もしかしたらこれは、ヨハネ福音書の記事と同じかもしれません。

マリヤに個人的に会われた記事がヨハネにあります。女性たちとの出会いのあとのことでしょう。

10人の弟子に復活日の夕方に出会われた記事が、ヨハネ福音書にあります。

それから1週間後の日曜日にトマスに会われた記事がヨハネ福音書にあります。

ヨハネ福音書21章には、復活された主が大漁の奇跡を与えられた記事があります。そのあとの「私を愛するか」というペテロに対する問いかけも含まれております。

それ以外にもパウロの記事によると、輝く光の中で復活の主がパウロに会われたことは別としても、3~4回はあります。

コリ1 15:6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。

コリ1 15:7 そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、

このようにイエスさまは、何度も顕れては、また姿を消されたのです。

それを車田秋次先生は「臨在の訓練」だと言われるのです。イエスさまが、目には見えなくても、すぐ側にいてくださる。そのことを確信させるための復活後の40日間の顕現であるのです。

そのことをヨハネ福音書14章では、次のように述べているのです。

ヨハ 14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

「別の」は、ギリシャ語ではアロス、この文章の中では語尾変化してアロンとなっています。

それは全く同じもう一人であります。

私たちはそのことを、説明されなくても、体験しているのです。

皆さん、主の臨在を感じるとき、「おおイエス様」という人が多いのではないでしょうか?しかし厳密に言うなら、臨在しておられるのは聖霊様です。ですから、「聖霊様」と呼びかけることが、正しいのですが、聖霊様は、お前間違っているとはおっしゃいません。それでいいのだよ。私がここにいることは、イエス様が側にいることに他ならないのだから。

今、私たちも「臨在の訓練」を受けていると思います。教会堂に集まることが出来ないのです。教会の兄弟姉妹と交わることが出来ないのです。しかし聖霊様は、側にいて、あなたにイエス様を顕しておられるのです。今、みんなで集まれない時を、主の臨在を深く覚える大切なときとして用いたいと思うのです。

 

③ルカのペンテコステを意識する

ヨハネの描いた11弟子のペンテコステが静かな聖霊の経験であるなら、ルカが描いた使徒たちのペンテコステは、人々が注目するような現象が顕れた出来事でありました。

使徒行伝2章2~4節には、三つのしるしが見られます。2節は、音、聴覚に対するしるしです。ゴーっという音です。3節の舌や炎のようなものとは、視覚に対するしるしで、何かがニューと伸びてくる、そのようなものが見えたのでしょう。4節の他国の言葉は、言語に関する徴でありました。

彼らの口から出てきたのが、「いろいろの他国の言葉」でありました。これは習得したことのない外国語が急に口から出てくるという不思議な現象でありました。

ユダヤ人は、離散の民といわれ、中近東、ヨーロッパ、エジプトに広がっていました。祭りのたびに、エルサレムに巡礼をするという習慣がありました。当時の公用語は、ギリシャ語ですが、それぞれの生まれ故郷の言葉を聞いたのです。

9節の、パルテヤ、メディア、エラム、メソポタミヤとは、今のイランやイラクの地方から来たユダヤ人でした。彼らはペルシャ語とかアラビア語などを聞いたのだと思われます。

9節途中の、カパドキア、ポント、アジア、フルギヤ、パンフリヤとは、現在のトルコの地名です。トルコ語だけでなく、その地方独特の方言がたくさんあったようで、一番心にぴたっと来る言葉を語ったのです。

10節の途中からは、エジプト地方のユダヤ人です。エジプト、クレネ、リビア

そして10節の終わりには、ローマからきたユダヤ人もおりました。彼らはローマ語と言いますか、ラテン語を語っていたのでしょう。

これらに加えて、地中海の島々、マルタ島やクレテ島からの者もいたのです。

みんなそれぞれが、自分達の生まれ故郷の言葉でメッセージを突然聞いたのです。その中には、方言のようなものも含まれていたようです。

私達は一般に、使徒行伝2章は、弟子たちに「異言」が与えられたと理解します。

しかしルカはここでは「異言」という言葉を使っておりません。「いろいろの他国の言葉」であります。

これは異言と呼ばれる現象の中では特異なもので、一度限りの現象と言っていいものであります。

「いろいろの他国の言葉」は、語り手自身はどこの国の言葉を語っているかを理解できなくても、聞き手は理解することが出来きたのです。聞き手がはっきりと理解できた異言と呼ばれる現象は、聖書中ここだけであります。

弟子たちが語った「いろいろの他国の言葉」がここでなした役割は、一言で言うと、アテンション・プリーズ、皆さん、注目して下さい。私達の言うことに耳を傾けてください。彼らの外国語でのメッセージは、神様の働きを述べたのですが、それで人々に救いや悔い改めが起こったのではなかったのです。この現象は人々の注目を集めました。そしてそのあとでペテロが語った、ヘブル語による、メッセージで、人々は悔い改め、救われたのです。

ここで大切なことは、そこでメッセージが語られたことです。ペテロは、14節からメッセージを語ります。

ペテロは、14節以降で、二つの旧約聖書の箇所を引用します。

それが、17~21節と25~28節です。

17~21節は、ヨエルが預言した聖霊の注ぎのことです。

25~28節は、詩編の16篇からの引用で、イエスの復活を語っています。

ペテロは使徒4章で、無学のただ人と呼ばれます。無学とは、神学の教育を特別に受けていない。ただ人とは、教職者と言われるポジションにいたのではない。神学校を出ていないペテロが、説教が出来るようになった。そこに聖霊の注ぎの素晴らしさがあるのです。

私には、ペンテコステ派の友人がおります。ペンテコステ派は、異言を強調します。異言というと自己満足のためというイメージが強いのですが、彼は、よく勉強をして、異言の現象をきちっと分析して、私に教えてくれました。

ペンテコステ運動が始まったのは、1901年です。日本でホーリネス運動が始まったのと同じ年であります。その母体となる共通したムーブメント、運動がアメリカでありました。それは、リバイバル運動と海外宣教運動でした。信仰の復興のため、そして、まだ福音の伝えられていない地域に宣教師を送る運動でした。つまり、熱心で、世界宣教に燃えていたのです。

その燃えていた人々が願った事が、使徒行伝2章と同じ出来事だったのです。世界に伝道したい。でも言葉が通じない。聖書を読んでいると、ならったこともない言葉を急に語りだしたとある。そうだ、これをもらえば、世界のどこに言っても通じる言葉が語れる。福音が伝えられる。実に単純な信仰のあり方でありますが、私はその人々の心が良く理解出来るのです。そして世界宣教に燃えている人々が異言を求めたのです。ペンテコステ派と呼ばれる人々が、最初に異言を語りたいと願った動機は、世界宣教だったのです。熱い心で人々に福音を伝えることが出来る。そのような聖霊様の祝福をいただきたいのです。

お祈りしましょう。