2020年4月26日 説教内容 「死者の復活」

2020年4月26日 説教内容

                                     「死者の復活」      照内幸代牧師

前置き

皆さんがどういう経緯で教会に導かれ、礼拝に集うようになったか、全て存じ上げているわけではありませんが、皆さんはきっと教会に来て聖書を読むようになって驚くことがたくさんあっただろうと思います。私は生まれたときから日曜日の朝は教会学校に参加していましたので、聖書のお話というのは自然と当たり前のように覚えてしまいました。特に疑問をもつことなく大きくなったのですが、大きくなってみて冷静に考えてみると、なんでこんなこと信じているのかよくわからないなあと思うことがたくさんあったものです。

 

特に今日のテーマである「死者の復活」。これはクリスチャンになってからだって未だに信じがたいと思っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。私たちは未だかつて一度も死んだ人が蘇るところを見たことがなく、科学的にも証明のしようがないことであるからです。

 

しかし教会ではこの「死者の復活」を信じて、毎年必ず祝っているのです。それが先々週迎えた「イースター」、日本語で言えば「復活祭」でした。この日はイエス様が死から甦ってくださったことを大々的に祝う、教会の三大祭の一つとなっています。

 

しかしこの「死者の復活」ほど、人々に躓きを与えて人々を教会から遠ざけてしまうようなことってないのではないでしょうか。誰だって愛の神を信じられる、イエス様が道徳的な方であることを信じられるというのに、このイエス様が死人の中から甦ったという教えほど、人々の信心に水をかけそうなことはありません。

 

秦野教会では昨年から「使徒の働き」、口語訳聖書では「使徒行伝」を読んできました。パウロの宣教旅行を順々に見ていますが、まさにパウロもこの教理に困難を覚えたのだということが分かります。今日はパウロアテネ伝道を通して、「死者の復活」ということについて考えてみたいと思っています。

本文

失望するパウロ

さてパウロアテネという街にやって来ていました。前回伝道をしたべレアという街に、テサロニケから邪魔をする人々がわざわざやって来て暴動を起こしたため、そこに留まれなくなってしまったのです。しかしべレアでは大きな実りがありましたから、パウロは仲間であったシラスとテモテをそこに一旦残し、一人アテネまでやってきました。16節を見ますと、パウロアテネで二人を待っていたとあり、もしかしたら一人で伝道活動を行うつもりがなかったのかもしれません。しかしアテネの街にギリシャ神の偶像がいっぱいあるのを見て心に憤りを覚え、これまでのようにユダヤ人の会堂に出かけたり、町の広場に出てギリシャ人と論じ合うという伝道活動をするようになったのです。

 

18節に、エピクロス派とストア派の哲学者たちも何人か、パウロと議論していたとありますが、18節にありますように、パウロアテネの街では全く相手にされなかったのだということが分かります。その理由は、「パウロが、イエスと復活を述べ伝えていたから」と書いてあります。

エピクロスもストアも、共に有名なギリシャの哲学者です。エピクロスもストアも心の平静さこそ至高の状態であるとし、心の平静不動を追求しました。エピクロスの方は死の苦しみや恐怖から解放されるための精神的快楽を主張し、ストアは、情念に乱されない内なる理性に従う禁欲主義を主張し、そこからストイックという言葉も生まれました。

 

快楽主義にしろ禁欲主義にしろ、ギリシャ哲学において、精神こそ重要なのであって、肉体は悪いものだ、物質というのは悪いものだという考えがありました。物質というものがあるからこそ戦争や犯罪という悪が起こってくるのだと考えていました。これを霊肉二元論と言います。また神という存在は、まさに至高の存在であって、この世とは隔絶しているものだと考えていました。そういう考え方のギリシャ哲学者であるからこそ、パウロの話していることはまったくただのおしゃべりであって、聞くに値しないようなことだったのです。

 

22節からは、パウロがどんな話をアテネの哲学者たちに話して聞かせたのかということが書かれています。24―30節に書かれていることはギリシャの哲学者たちも賛成しているところです。神によってこの天地が創られたが、神は天地の主だから人の作ったところには住んでいないということ、そして偶像を神かなんかだと思うのは間違っているということ、これに関しては哲学者たちも確かにその通りだとうと思ってきいていたのです。

 

ところが31節にあるパウロの言葉が、ギリシャの哲学者たちにとって躓きとなりました。ある人たちはあざ笑い、ある人たちはそのことはまた今度聞くよと言った具合で、とたんに相手にされなくなってしまったのです。それは、「死者の復活のこと」を聞いたからだと書かれています。

 

ギリシャの人たちにとって、この肉体があるということは、むしろマイナスなことだったのです。肉体があるから人は欲しがる、怠ける、罪を犯す、災害がおこる。物質があるからこの世は悲しみでおおわれていると考えていたのです。人が死人の中から甦るなんて、一番良いことから遠いようなことだったのです。むしろその肉体を捨ててまで良い精神状態にあること、肉体から解放されていること、これこそが彼らの求めていることだというのに、肉体を伴って蘇られた救い主だなんて、彼らにとって希望ではなかったのです。

 

皆さんはギリシャの哲学者はなんて気難しいのかしらと思ったかもしれません。体がある方が食べる楽しみも眠る楽しみもあっていいじゃないと思ったかもしれません。しかしこのギリシャの哲学者たちが思っていることは、私たちが普段思っていることとそう遠くはないのです。

 

早くお迎えが来ないかしら。最近いろいろしんどくなってきたし、と言うとき、はやく天国に行って煩わしいことから解放されたいわというとき、実は私たちはギリシャの哲学者たちと同じようなことを考えているのです。この地上で生きていくのはしんどい、そこから楽になりたい。罪を犯してしまう自分から解放されたい。天国に早く行きたい。私たちの信仰の中に現実逃避のような感情があるとするならば、このギリシャ哲学者たちが思っていたようなことと同じです。

 

なぜ死者の復活が大事なのか

なぜ、イエス様が復活なさったということが大事なのでしょうか。教会ではよく、イエス様が十字架にかかって私たちの罪の贖いのために死んでくださったということが強調されます。しかし、イエス様が三日目に死人の内から甦ってくださったということが、イエス様の十字架と同じくらい強調されるべきことなのです。二つの大きな理由があげられます。

罪の力に勝利した

一つ目は、復活によって罪の力に勝利したということです。そもそもこの地球も、全ての生き物も、私たちも、神様によって完全な形に創られました。その時、人も生き物も死ぬ存在ではありませんでした。しかし人間が神様との約束をやぶって、食べてはならない木の実を食べ、しかも悔い改めることをしなかったので、その時から人は死ぬものになってしまったと聖書に書かれています。命なる神様と断絶してしまうということは、それは滅びを意味するのです。

 

しかし神様は、私たちを創られた父なる神様であったので、人間を愛していました。罪を犯した人間に滅びてほしくないと思ったのです。しかし神様はきよくて正しい方ですから、罪を受け入れるということもできませんでした。そこで神様は人間を生かすために、ご自分の独り子をなだめの供え物として十字架にかけられたのです。罪を犯したことのないお方が犠牲となることで、私たちの罪を赦してくださるという決断をしたのです。

 

罪の報酬は死ですという言葉が聖書にありますが、罪を犯した者は必ず死ななくてはならなかったのです。神様の御言葉は絶対ですから、その論理でいけば死ぬのは罪を犯した人間ということになります。しかし神様は、旧約時代に人々が傷のない子羊を犠牲としてささげることでその罪を赦されたように、傷のない子羊としてご自分の子をささげることによって私たちの罪を赦してくださったのです。しかし、この神なる御子は、罪を犯したことのないお方ですから、罪の報酬である死はこの御子を死んだままにさせておくことができず、イエス様は勝利して復活なさったのです。

 

誰にでも、一度肉体の死が訪れます。聖書はそれを眠っている状態だと言います。そして善人も悪人も全ての人が、イエス様がもう一度地上に来られるときに復活して、イエス様が永遠の命に与る者と、滅びる者とを裁きなさると書いてあります。滅びに入ることが、本当の死であると聖書は言うのです。

 

エス様は、その死の力に勝利をされました。誰でも罪をもっていて、滅びるしかない定めにあったのですが、イエス様がなだめの供え物として死なれ、死の力に勝利して復活されたことを信じるならば、私たちも死の力に勝利することができるのです。ですからイエス様が死の力に勝利した初穂、初めの人であるというのは大事なことなのです。

 

神の創造の回復

エス様が復活なさったことが大事だという二つ目の理由が、神の創造が回復するということです。

 

先ほども申し上げたように、神様はこの世界を全て良いもの、完全なものとしてお創りになりました。しかし罪がこの世界に入ったために、この世界は堕落したというのです。神様の御計画というのは、この世界が回復すること、神様が初めに創造された美しい世界に戻ることなのです。

 

ヨハネの黙示録を読んでみますと、そこに「第二のエルサレム」と呼ばれる新しい天と地が出てきます。私たちが神の国と言ったり、天国と言ったりする、神様が治められる神様の王国です。それはやがて今の世界が滅びたときに神様が与えて下さるものとしてでてきます。ところがこの新天新地をよく読んでみますと、なんとエデンの園にそっくりなのです。エデンの園と違うのは、どうも水路のような人間の作った都市国家の特徴も出てくるという点です。

 

しかしエデンの園のように、いのちの木があり、川が流れ、旧約聖書の預言と照らし合わせてみますと、肉食動物と草食動物が仲良く座っているようなところなのです。神様は天地を創られたはじめ、木の実しか食べ物として動物には与えませんでしたので、そのときのような様子が新しい天と地には出てくるということになります。神様の目的は、ここにあるのです。

 

なぜ肉体を伴って復活することがそんなにも大事であるのか。それは、神様が初め良いものとして創られたこの天地の御業が回復するからです。その世界に私たちは復活した体で生きるのです。ギリシャ哲学者たちが信じているような精神的に救われている状態というのではないのです。神が素晴らしいものとして創造された、この身体をもって復活している。神の創造のわざが回復しているということが大事なのです。

 

私たちはそのことを見落としてしまいますと、ともすると危険なことになります。まあこの地上は、やがて滅びる世界だからいいや。天国に行けば全て良くなるからいいやということになってしまいかねないのです。そうではありません。神は、この世界と、私たちの肉体と、全て既に存在しているものとが、神の形に回復するということを願っていらっしゃるからです。

 

今ここで生きている私たちが、神のわざの回復のために生きているということが大事なのです。神の創られたものは、失われてなくなって消えてしまうものではなくて、もとのかたちに回復して、永遠に残っていくものであるからです。主イエス様が肉体を伴って復活されたことは、十字架で死なれたことと同じくらい、強調されて、大事にされるべき事柄なのです。

 

まとめ

ギリシャの哲学者たちには、このことが分かりませんでした。神という存在は、この世界とは接点が持てないくらい至高の存在、超越した存在だと信じていたからです。私たちに滅びてほしくないと思って、ご自分の子の命すら与えた神が彼らにはわからなかったからです。だから死者の復活ということを聞くと、信じることができずにあざ笑ったり、話を聞くのをやめてしまいました。

 

33節には、「こうして、パウロは彼らの中から出て行った」と書かれています。迫害にあったわけでもなく、命が危なくなったわけでもなく、自らアテネでの伝道活動を辞めて、コリントへと行くのです。パウロにとって復活の主を信じてもらえない、主イエス様が死から甦ったことを信じてもらえないことは、鞭で打たれるよりも、牢屋に入れられることよりもずっと辛く悲しいことだったのです。

 

パウロは後の手紙の中で、「もし復活ということがないなら、私たちの信じていることは空しい」と書いています。意味がないことだと言っています。しかし彼らは、本当にイエス様が死の中から甦ったと信じていました。復活された主にお会いしたのだと信じていました。だからこそ、どんなに鞭うたれても、牢屋に入れられても、迫害されても、それこそ殺されるその瞬間まで、彼らは信仰を守り通したのです。自分の命を失ってまで嘘を信じる人はいません。本当に復活したからこそ、そしてそれを目撃したからこそ、彼らは命をかけてまで迫害の時代をクリスチャンとして生き抜いたのです。

 

復活の主は、本当におられる。我々はその復活の主によって罪の力から自由にされた。そして復活の主が蘇ったように、終わりの日に甦ることができる。そのことを私たちは改めて信じましょう。この復活の力の前には、何ものも私たちを脅かすことはできません。祈りましょう