2022年1月16日の説経要約
「キリストのお陰で」 中道由子牧師
《このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。》
(ローマの信徒への手紙5章1、2節)
1節に「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、」とあります。
「このように」の内容には、3章、4章に書かれています。
3章23節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」
神様とのまっすぐな関係が持てない状態は、私たちの内に神の義は失われています。
それは、死を意味します。6章23節「罪が支払う報酬は死です。」
ローマ書1章には人間がどれだけ罪深いか書かれているのです。
私たちの内には、神の栄光を回復し、神様と正しい関係を持てるものがないのです。
ユダヤ人は律法によって義を得ようとしました。
しかし、律法は罪の自覚しか与えることができないというのです。
この中には、前半は神と人の関係が書かれており、後半は人との関係で、「○○してはならない」という否定形です。
たとえば、「これは秘密なのだけど、絶対人に言わないでね。」と言われると、忠実に守れる人もいるかもしれませんが、内容によっては自分だけが知っていて誰にも話せないことにストレスがたまる。
誰にも言わないで、と言われたことにより余計に誰かに話したくなる、ということが起こるわけです。
「~してはいけない」と言われると、したくなる。そのように、律法にはかえって罪を促す力があるが、人を義と認める力がありません。
私たちは異邦人なので、律法は与えられていません。しかし、神様からあたえられているものがある、それが良心だとパウロは2章で語っています。
良心が責められず、生きていけるかというと、自信をもって自分は大丈夫と言える人はいないでしょう。
罪ある私たちはどんなに善い行いを積んでも義と認められることはありえません。
たとえば、法的に罪を犯した人が裁判にかけられ、刑務所で罪を償い出てきます。
もう罪は償ったといいますが、その罪は本当になくなるでしょうか?
律法はそうならないために、私たちがコースを外れそうになる時に警笛を鳴らしてくれるサイレンの働きをしてくれます。
しかし、それは、外れたというサイレンにしか過ぎません。正しい道へは導いてくれません。ここに、律法の限界があります。
実は律法がある者にも、ない者にも神様が同じように与えた賜物が与えられているのです。4章22節「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じるものすべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」
そして、信じる内容です。
24節~26節「ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」
イエス様の十字架の血によって、私たちは神様から義とされる、また神と平和な関係が回復する道が開かれたのです。
義は無償で受け取るしかないものです。
そして4章にはそれを受け取る方法が示されています。
アブラハムは神から義と認められた人です。
4章2節「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
3節 聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。」
アブラハムも多くの失敗をしてしまった人でした。
実際には神の約束を信じきることができなかったにもかかわらす、それでも彼は、神を信じることによって義と認められたと書かれています。
彼の信仰さえも神が信じられるように、約束を再確認させ、サラを通して約束の子イサクを与えたのです。
5節をご覧ください。
「しかし、不信人なものを義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」
つまり私たちができることは、良いことであっても行いによってはとうてい神から義と認めていただけない。
しかし、神は主イエス・キリストの十字架を通して、私たちを義と認めてくださったのです。この事実を「信じます!」という信仰の告白だけが私たちに求められていることです。
さらに4章24節、25節には、十字架だけではない、イエス・キリストの復活を信じる者は義とされる内容が書かれています。
復活は、私たちが義とされたしるし、確証を与えてくれるのです。
最後に、5章2節に新共同訳では「このキリストのお陰で」と書かれていることに注目したい。
イエス様の十字架のお陰で罪赦され、イエス様の復活のお陰で私たちは死に対して恐れることなく復活の希望をもって生きることができるのです。