2019年8月25日の説教要約 「主キリスト・イエスを知るすばらしさ」

2019825日の説教要約

 「主キリスト・イエスを知るすばらしさ」  中道由子牧師

 

《そればかりか、わたしの主キリスト・イエスをしることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。》    (フィリピの信徒への手紙3章1~11節)

 

1、          人間的なものを頼みとしない

  フィリピの信徒への手紙334節「肉に頼る」という言葉が出てきます。

「肉」というのは、肉的なもの、物質的、また見た目からして価値があると思われるものですが、血筋、学歴、肩書きなどもこの「肉」という中に含まれます。

また、この「頼る」というギリシャ語の意味は、「確信する」という意味があるそうです。

つまり、肉に頼るとは、「肉によって自分が何者なのか確信させる」のです。

 かつてパウロが頼っていた肉的な自分の経歴が5節、6節に書かれています。

ここには、かつてパウロが、自分自身の存在を確信させていた三つの肉的な誇りが明らかにされています。「割礼」、「血筋」、「自らの熱心さ」です。

 「割礼」は、ユダヤ民族が神のためとなるための肉的なしるしとして、男性器の包皮の先端を切る行為です。ユダヤ民族が神の民となることは、割礼が必要であり、割礼が、神の民にあるための不可欠な儀式でした。それを、パウロは、生まれてから八日目に行いました。最も正式な形で割礼を受けたのです。

 次に「血筋」です。パウロは、自分を「ベニヤミン族の出身」だと告げます。

ベニヤミン族は、歴史から、言って、他の種族の中でも誇るべき種族であったようです。

彼らは、ユダヤの南の方に住んでいたので、生活圏内に神殿が置かれてあるエルサレムがあったのです。自分たちの土地自体に誇りを持っていたと考えられます。

イスラエルにとって異民族が侵入してくるのは、北からの経路が常でした。それに伴って入ってくる異教的文化や信仰によって、北側のユダヤ民族では信仰的にも純粋さを保てずにいたのです。けれども、ベニヤミン族は、その地理的な優位性も手伝って、もっとも純粋に、イスラエルの文化、信仰を保ち、継承することができたのだと思います。

 そして、「自らの熱心さ」です。パウロは「律法に関してはファリサイ派の一員」だったと記しています。ファリサイは、イエス・キリストによって非難されたユダヤ教の一派です。彼らは、ユダヤ教において守るべき律法を厳格に守ろうとする信仰的立場を持っていました。ファリサイという言葉は、「分離する者」と言う意味です。彼らは、異民族や罪人と言われる人たち、律法をそれほど遵守しないで生活する人たちに対して蔑む心を持っていました。つまり自分と他者を分離する心を持っていたのです。それゆえに、イエス・キリストファリサイ派を激しく非難されたのです。パウロは、そのファリサイ派の一員でした。しかも「律法の義については非のうちどころがない者でした」とまで言い切っています。

 パウロの人生の核を形成していたもの、それは律法による義でした。律法を遵守することによって自分という存在を確信させていたのです。

そして、律法の義を貫こうとするパウロの熱心さが、ユダヤ教の異端だと思わせたキリスト者に対する迫害を支持する心を生みました。律法による正義の心が、キリスト者の殺害を正当化させたのです。パウロは、「教会の迫害者」だったと告白しています。

これまで振り返ったパウロの生き方は皆、「肉に頼る」生き方でした。けれども、今日の聖書箇所においては、これまでのパウロ自身の人生を確信させてきたもの、割礼や血筋、自らの熱心さが、すべて、今や「損失」であり、「塵あくた(原語では排泄物の意味)」だった、というのです。驚くべきことです。今まで自分が誇ってきたもの、自分を支えてきたもの、自分の存在を確信させてきたものを、一蹴してしまうことができるのです。いったい、パウロに何が起こったのでしょうか。何がそこまでパウロを変えさせたのでしょうか。

それは、8節にある「キリストを知ることのあまりのすばらしさ」によってです。キリストを知ることのすばらしさが、これまで自分が頼りにしてきた肉的なものをすべて拒否してでも惜しくない人生の喜びを、パウロにもたらしたのです。

では、パウロの人生を変えた「キリストを知ることのあまりのすばらしさ」とは一体何なのでしょうか。パウロ9節で述べています

 

2、          信仰による義

9節「私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」

イエス・キリストによってパウロが与えられたもの、それが「信仰による義」です。

当時キリスト者の中にいたユダヤ人の律法主義的人々は、救いの完成のためにはただ信じるだけでは駄目で、旧約聖書の律法を守り、善行を積まなければならないと教えました。

パウロは断固としてそれと戦い、彼らを「犬」とさえ呼んだのです(32

エス様の時代にファリサイ人がどんなことを行っていたかということが、ルカによる福音書181012節にかかれています。

「二人の人が神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように言った。『神様、わたしは他の人のように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています。』」

キリストを知ったパウロは、この信仰を根本から覆されてしまった。そこには本当の救いはないことがわかったのです。それらの行為によっては、真の平安も、生きている喜びも得られなかった。 人生にはしばしば、エリートだった人、裕福だった人が、事業の失敗やミスによって一気に落ちてしまい、そこでイエス・キリストに出会うということがあります。

パウロの場合は、それに似たことは一切書かれていません。彼は世間的に見れば人生の成功者のように思えます。そんな彼が、自分の義としては正しいことをしていると思って、キリスト者を迫害していたのです。客観的に、私たちが見てもそれは罪です。彼がキリスト者を殺そうと息をはずませていたダマスコ途上で、光輝くイエス・キリストに出会うのです。

「サウロ、サウロどうしてわたしを迫害するのか。」とイエス様は言われた。キリスト者を迫害することは、イエス様ご自身を迫害することに繋がるのです。

 私たちがイエス様に出会った時はいかがだったでしょうか?

パウロのように劇的ではなかったかもしれません。でもこのイエス・キリストに出会う瞬間を人生のターニング・ポイント転換点と言います。

今まで生きてきたようにはもう生きられない。なぜなら、本物に出会ったからです。

人が救いを受け、神の前に義とされるためには、何を行うかではなく、何を信じるかです。

宗教改革を行ったマルチン・ルターはビッテンベルク大学の教授になって、聖書学を教え、その時、このパウロが書いたローマの信徒への手紙117節の「義人は信仰によって生きる」という御言葉に出会うのです。

ルターは、この御言葉によって、信仰によって義とされる(信仰義認)恵みにあずかり、初めて信仰の喜び、救いの喜びを味わったのです。

 私たちの人生の中で一番素晴らしいことは何でしょうか?

それはイエス・キリストに出会い、本当の神を知ることではないでしょうか。