2023年8月13日の説教要約 「ガマリエルの教え」

2023年8月13日の説教要約

       「ガマリエルの教え」     中道善次牧師

 

使徒言行録  5章33~42節≫

 

1、律法の博士ガマリエル

ガマリエルは、34節で「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属する」と紹介されています。

ガマリエルはヒルレルの孫でした。ヒルレルは、ヒルレル学派というユダヤ教の一つの学派を作った人でした。

ガマリエルは人格が穏やかで、律法に通じたラビの中のラビでした。

彼が亡くなったのは紀元50年と言われております。ある伝説では、彼が亡くなってから、人々の心の中に律法に対する敬虔な心や清く生きるが失せてしまった、とあります。そのぐらい影響力の強い人でありました。

律法を守るという点では厳格なヒルレル派でしたが、考え方としてはリベラル、つまり自由で柔軟であったのがヒルレル派でありました。

ここからは私が調べたことを紹介します。それはユダヤ教キリスト教の伝説の域は出ませんが、こうであったら素晴らしいという美しい可能性を秘めた伝説であります。

第一の伝説:イエス様が12歳の時に神殿で律法を学んだ時、教えていた一人がガマリエルであった。

ルカ 2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

エスが12歳の時に神殿で学んでいた。その時の律法の教師の一人がガマリエルであった可能性があると言う人がいるのです。彼が紀元50年、65歳でなくなっていたと計算するなら、ガマリエルが27歳の時となり、可能性があります。

第二の伝説:バルバロ訳を書いたカトリックの宣教師バルバロは、ガマリエルは、その後クリスチャンになったと言われている。そう記しております。ロバートソンという注解者は、ガマリエルは、隠れたクリスチャンであった可能性がある。ヨセフやニコデモのように、というのです。

インマヌエル中目黒教会の竿代先生のメッセージの言葉を引用します。

「ガマリエルが、イエスがメシアかもしれないという可能性を幾分かでも認めていたかどうか、この勧告だけでは分かりません。しかし、100%否定するという考えに凝り固まった人物でないことは確かです。更に、彼は使徒たちの行動や教えに、かなりの理解と好意をもっていた節がうかがえます。一般的に言えば、ファリサイ派は、復活を信じていましたから、使徒たちの復活の主張に関心を持っていたと考えられます。さらに、使徒たちの生活の聖さ、正義感、神への信仰などに尊敬を持っていたと思われます。」

ガマリエルは、真理に対して心開かれていた人物であったのです。

第三の伝説:今日お読みした使徒言行録5章33~40節の38~39節にもう一度、注目してください。

使徒 5:38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、

使徒 5:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、・・・

このガマリエルの助言を、誰が聞いていたのでしょうか。そしてそれを誰が使徒言行録の著者ルカに伝えたのでしょうか?恐らくガマリエルの弟子であったパウロが、このガマリエルの勧告を聞いて、覚えていたのです。

パウロは、クリスチャンになってから後、このような出来事があったとルカに伝えたのです。そして使徒言行録に記録するように伝えたのです。

ガマリエルは人々の尊敬を受けていました。この時はまだ、サンヒドリン、ユダヤの国会議員の一員でした。やがてサンヒドリンの議長になるリーダーシップを持った人です。

彼が挙げた例の第一が「テウダ」です。テウダについては、ここ以外に記録がありません。多分、BC4年のヘロデ大王の死後パレスチナのあちこちに起きた暴動を指導した一人であったと考えられます。

その後、AD6年にパレスチナローマ帝国の属州にされて、厳しい税金の取立てのために人口調査が行なわれました。その時立ち上がって、民衆をそそのかして反乱を起こしたのが、37節に出てくるガリラヤ人ユダです。彼は、ローマに税金を納めるのは神への反逆であると主張しました。ユダの起こした反乱はローマ帝国によって直ちに鎮められてしまいました。その運動は「熱心党」という形で残りました。

このように具体的な事例を挙げて、自称メシア運動は自然消滅したではないかと述べたのです。まことに説得力のあるものでした。

ガマリエルの助言のポイントは、放っておきなさい。そして神様のみ手に委ねなさいということでした。

 

2、パウロの恩師ガマリエル

使徒 22:3 「わたしはキリキア州のタルソスで生れたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について、厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。

使徒22章は、パウロユダヤ人の前で、自分のことを弁明しています。

タルソスとは、トルコ南東部の町です。この都市は学問の街です。ここでギリシャ哲学をはじめ、専門的な勉強しようと思えば十分に出来た街であります。しかしパウロが学んだのはエルサレムでした。

パウロの親戚が、エルサレムに住んでおったようであります。その親戚を頼りに、パウロエルサレムで育てられました。それが「この都で育ち」という言葉です。

パウロの両親は、外国タルソスで生まれたパウロですが、生粋のユダヤ人として育てるべく、エルサレムの親戚に元にパウロを預けて育て、そこで教育を受けさせたのです。

そしてガマリエルから学んだのです。ガマリエルから学んだのは、バル・ミツバ、つまり、ユダヤの成人式を終えた13歳からであるようです。ガマリエル先生に正式に弟子入りしたという年齢のことでしょう。

ガマリエルのもとで、口語訳では「ひざもと」とあります。これは、弟子が師から御言葉を学ぶ時の姿勢であります。

同じ姿勢を、イエス様に見るのです。

ルカ 2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

ここから聞き取るメッセージは、私たちも、主の足もとに座って、御言葉をじっくり聞いて学ぶ者でありたいのです。そして真理に対して開かれた心を持つことであります。

もう一つ。ガマリエルは、ラビの中での「私たちのラビ」という最高の称号をもつ7人のラビの一人でありました。

ガマリエルの教育とは、口語訳では「薫陶」とありました。それは、子どもを訓練する、教え込む時の言葉であります。

同じ言葉が使徒7:22で使われています。

使徒 7:22 そして、モーセエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。

あらゆる教育を受け。口語訳では、「教え込まれた」とあります。これは、数学的な正確さ、厳格さを持って教えられたという意味であります。

聖書の一字、一句、一点、一角まで正確に聖書を記憶していたと思います。それが教え込まれた、数学的な正確さであったと思います。

ユダヤ教の教師ガマリエルから学んだパウロは、やがてクリスチャンになりました。しかしクリスチャンになったので、律法を教えてくれたガマリエルは、もういらない、尊敬できない。そのようなったでしょうか?

そうではありません。恩師の教えは大切です。

使徒22:3で、パウロはガマリエルの弟子であったことに誇りを持ち、それを公にしているのであります。

再びインマヌエル教会の竿代先生の説教を引用します。

使徒15:5には、ファリサイ派から信者になった人々と述べられています。

ファリサイ派からクリスチャンが生まれた。その種はファリサイ派のガマリエルによって蒔かれたと考えられます。

パウロがクリスチャンになった大きなきっかけは、ステファノの殉教でありました。

しかしその前に、小さな種がガマリエルを通して蒔かれていたといえるのです。」

バタフライ・エフェクトという言葉があります。NHKでは、そのタイトルの番組があります。蝶の小さな羽の羽ばたきが世界を変えた。

キリスト教をヨーロッパにつたえ、世界を変えたのがパウロです。しかしそのパウロに、小さな種をまいたのは、バタフライ・エフェクトを与えたのはガマリエルでした。

 

3、新しいものを受け入れる

ここは、彼の神学的な態度、信仰的な態度、それを学びたいと思います。

使徒 5:39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」

この言葉の中からガマリエルの柔らかい心を見ることができます。

レベルの高い学びを積んだ人であればあるほど、他者の意見に耳を傾ける。自分の意見に凝り固まって、他の学説を認めないということはないのです。それがガマリエルでした。

学問をした人は、物事を軽率に決めつけない。そしていつも真理に対して開かれた心を持つことであります。

ガマリエルは、使徒たちは異端だ、神に逆らっていると他のユダヤ人のように決めつけなかったのです。

しかしパウロは、使徒5章の時点では、師匠ガマリエルと同じではなかったのです。

パウロは彼らを異端だと決めつけていたのです。そして彼らを迫害し、投獄し、殺したのです。

そしてパウロの人生に、ガマリエルが警告した通りのことが、起こったのです。

パウロは、ガマリエルの忠告を何時までも記憶しており、ルカにこの箇所を記すように願ったのです。

決めつける態度を取ってはならない。それがガマリエルの姿でした。自由で幅の広いものの見方をする人物だったのです。

クリスチャンになってからのパウロは、相手を敵だと決めつけない、幅の広い、柔軟な考えを持つようになったのです。それが、フィリピ1章14~18節の言葉に見られます。(引用省略)

フィリピの信徒への手紙を書いたとき、パウロはローマで軟禁状態にありました。

パウロに敵対する人々がおりました。反パウロ派という人々です。パウロが自由に伝道出来ないこの時、自分たちの勢力を拡大する時だ。それが15節の妬みと争いの念に駆られて福音を伝える人。17節の自分の勢力拡大のために福音を伝え、パウロを苦しめようとする不純な動機からの福音宣教だったのです。

しかしパウロは、自分のことを心配して、善意から、大胆に福音を語るようになった人のことを喜ぶだけでなく、妬みと争いの念から福音を伝えた人々、自分たちの勢力拡大を目指した人々を含めて、感謝しているのです。喜んでいるのです。それがパウロの心の広さ、柔軟さであります。ねたみから福音を伝えた人々を、あいつらは敵だ。そのように否定しない。あれは偽物だと決めつけない。伝えられているのはキリストなのだから。

パウロには、物事に対する柔軟な態度がありました。ガマリエルから受けた真理に対する開かれた心です。偏ったものの見方をせずに、あらゆる可能性を受け止める自由があるのです。

私たちもまた、自由で、柔軟な心を持って、真理に対して開かれた者でありたいと思います。