2024年5月5日の説教要約
「ナザレのイエス」 中道由子牧師
《日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスの許に連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。》
(ルカによる福音書4章16~40節)
1、歓迎されないメシア(16~30節)
悪魔の試みを受けた後、イエス様は、“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られました。
そのうわさは、その地方一帯に知れ渡り、イエス様の生まれ故郷であるナザレにも広まっていったのです。
ご自分の育ったナザレに行かれた主イエスは、安息日に会堂に入り、預言者の書が朗読される時に立って前に出られました。
イエス様は巻物の61章を開き、救い主についての預言がされている箇所を読み始めました。
そしてイエス様は、人々の目が一斉にご自分に向けられている中で、この聖書の言葉がご自分において実現した、と宣言されました。つまり、ご自分が救い主であることを宣言したのです。
今まで彼らが教えられてきたのは、救いを得るためにはこれこれのことを自力でしなければならないということでした。しかし、彼らが主イエスから聞いた言葉はそうではなかった。
主イエスの口からは、神がその民に与えようとしておられる「恵み」が語られたからです。
しかし、彼らは本当にイエスを理解するまでには至っていなかった。
子供の頃からよく知っていた彼らにとって、イエスは優れた人物とは映っても、どこまでもただの人、としか把握できなかったのです。
それで皆口々に言ったのです。「この人はヨセフの子ではないか。」と。
イエス様はこのナザレの人たちが何を求めているか察していました。
カファルナウムの町で主イエスは奇跡を行われた。
ナザレの人々はそれと同じ奇跡が見たいと願っていたことがわかります。
それは、同郷の人が力あるわざを行って有名になったことを誇りに思う気持ちと、出身地に住む自分たちこそ、その同じわざを見せてもらう権利があるという、奇蹟を要求する気持ちの表れでもありました。
しかし、主イエスが旧約聖書のエリヤやエリシャは、異邦人であるシドンのサレプタのやもめを助け、シリア人のナアマンを癒した、と話された時、ナザレの人々はねたみと憎しみを感じたのです。
異邦人に救いが及ぶと聞いて、彼らは腹が立ったのでした。
私たちも周りに起こって来るさまざまなことを信仰の目を通して見ることができるなら、主が私たちのために与えてくださっている恵みを恵みとして受け取ることができるでしょう。
2、権威あるみことば(31~37節)
主イエスは郷里ナザレからカフェルナウムに下って行かれ、そこでも安息日に会堂で人々を教えました。カフェルナウムの人たちもその教えに驚いたのです。
それは、そのことばには権威があったからでした。
「権威」という言葉を辞書で引くと、「人々に強制し服従させる威力」とあります。
聖書的解釈ですと、「説得力があること」「信頼、信用があること」「模範的であること」「創造性があること」そして、「威厳があること」と記されています。
権威とは、自由な思いで、自発的な意思で従っていこうと感じさせる力だというのです。
強制的に無理やり、脅しながら従わせるのではない。何の強制的なものもない中、この方が言われることなら従おうと思える、自由で厳粛なもの、絶対的な信頼がおけるものであると言えます。
悪霊は人々の心に、神の御国、神の支配がやってくることを実は恐れているのです。
私たちは自分の内側を見る時、神の国がわたしの内にできることを当たり前のことだと思えるでしょうか。主イエスが心の中をきれいにしてくださればこそ、神様はここにご臨在くださるのです。
そして、主イエスは、汚れた霊に対して出ていくように命じられました。
これは、誰か他の人のこと、精神的に病んでいる方の問題ではありません。
私はこうしたいけれどできない。外見はよく見せても、そうでない自分がいる。
自己分裂している自分があることに気が付きます。
まさに悪霊の支配の中にあるのと同じです。
しかし、主イエスに従って生きるなら、イエス様は癒し、統一させてくださいます。
霊を追い出し、罪の赦しを宣言する。権威あるみわざを持っておられる主イエスは、私たちの内に神の国を造るためにおいでくださり、すでにみわざを進めてくださっています。
3、一人一人を愛するイエス(38~44節)
安息日の土曜日がおわった時、牧師で言うならば、日曜日のさまざまな集会が終わり、少し休もうかという感じの時です。そのような日の夕方6時を過ぎてから、大勢の人々がイエス様の所へやって来ました。いろんな問題を、イエス様の所へ持ってきたのです。
主は、一人一人に手を置いてお癒しになったのです。
大人でもこどもでも、年寄りでも、決して十把一絡げの対応ではありません。
一人一人皆、悩みや痛みや問題が違うのです。
主イエスが、私たちの一人一人の日常的な事柄に関わってくださる具体的な例が書かれているのが、「ペトロの姑」のことです。
彼女は高い熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだのです。
会堂で安息日の礼拝を行い、人々は解散しました。
イエス様は、一人の悪霊にとり憑かれた男の癒しを、大勢の人々の前でなさいました。
しかし、ペトロの姑の場合は、家に行って癒されたという対照的な内容です。
イエス様は、教会の集会、大勢の中の一人というのでなくて、その中の一人一人に目を留めて、愛しておられるということを見ることができます。
私たちには、色々な問題や課題があり、人には、言えないようなこともあります。
そのような私たちに、主イエスは深く関わり、お癒しくださいます。
主は弟子としてお召しになるペトロの家庭に深い関心をもっておられます。
同じように、私たちの家族に深い関心を持ち、責任を持って導いてくださいます。