2024年4月7日の説教要約 「その道筋をまっすぐにせよ」

2024年4月7日の説教要約

   「その道筋をまっすぐにせよ」    中道由子牧師

              

《そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。》(ルカによる福音書3章16節)

 

1、悔い改めの実

 ローマ皇帝テベリオが治めていた時代、バプテスマのヨハネは登場してきます。

彼は神の導きにより、人々に悔い改めのバプテスマを授けていました。

彼はイスラエルの人を何と呼んでいるかー7節「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」と、強烈ですね。

「自分たちは選ばれた民だと思っているかもしれないが、その選民思想はもう一度見直しされなければならない、だから悔い改めなさい。」ということです。

アブラハムの子孫である自分たちは神の民である、特別選ばれた民である、という自負に安住しているのでは、到底天国に入れないと言ったのです。

悔い改めには、罪を犯したという後悔だけでなく、自分を罰する苦しみが伴います。

それはただ自分が哀れで泣くのではなく、罪を犯した自分を憎くて泣くのです。

悔い改めは、失われた神様の栄光に思いを集中させ、罪の鎖を断ち切る力をもっています。

バプテスマのヨハネは「先生、わたしたちはどうすればよいですか」という群衆に、11節「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。」、

また、徴税人に、13節「規定以上の物は取り立てるな。」、兵士たちに、14節「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」と忠告します。

口先だけではない、実生活が変えられることなのです。

私たちは確かによい行いではなく、罪あるありのままで主の救いに預かりますが、信仰によって救われた者は、そのままでいることはあり得ない。私たちは、良き行いのために造られたことを覚え、実生活が変えられていく、それが悔い改めの実であります。

 

2、アイデンティティの認識

  バプテスマのヨハネの説教を聞いた民衆は、かねてから救い主の到来を待ち望んでいたので、もしかしたらこのヨハネがキリストなのではないかと考えるようになりました。

そうした民衆の思いを知ったヨハネは、自分は救い主ではないと宣言し、民衆の目をやがて来る救い主イエスに向けさせようとしました。

 やがて来る救い主イエスは、ヨハネのような水のバプテスマではなく、聖霊と火のバプテスマを授けるお方です、と。

「火のバプテスマ」というのは、罪に対しては、神の裁きがあるということなのです。

その裁きを主イエスは負ってくださるお方であり、聖霊なる神は焼き尽くしてくださるお方であります。主イエスの昇天後十日目に起こった聖霊降臨の日から、弟子たちは大きな力を与えられ、信仰を強められて、大胆にキリストの証人として、このキリスト以外に救いがないことを宣教し始めるのです。

バプテスマのヨハネは、ここでメシアの先駆けとしての自分の位置を守ります。

多くの人がヨハネを見て、メシアではないかと期待しましたが、ヨハネは自分の限界を明らかにしているのです。バプテスマのヨハネは、主イエスを認め、自分を否定します。

与えられた立場や賜物を越えて働きをしようとするなら、高慢の罪が入ってきます。

しかし、成功を渇望する世の中で、自分を否定し、真実を明らかにすることは大きな勇気がいることです。バプテスマのヨハネは、真実でないことははっきりと言える勇気を持った人でした。

彼はヘロデ王の罪の生活を指摘したため捕らえられ、牢で斬殺されます。

彼は、メシアである主イエスが活動される前に人々の心に備えを与えた人でした。

バプテスマのヨハネが、彼の分においてその使命を全うしたように、私たちもまた私たちの分を果たす生き方をさせていただきたい。

 

3、神の愛する子登場

 ある日、バプテスマのヨハネが人々に悔い改めのバプテスマを授けていると、主イエスガリラヤからヨルダン川に出て来て、ご自分からバプテスマのヨハネの所に来られました。

何のために来られたか?ヨハネからバプテスマを受けるためでした。

罪の悔い改めのバプテスマを、罪のない主イエスヨハネから受ける必要など全くないはずでした。そのことはヨハネも知っていました。

それでヨハネは主イエスバプテスマを授けることをためらったのでした。

ところが、主イエスヨハネに向かって一歩進み出ます。

マタイによる福音書3章15節ではこう言っておられます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

こうして、主イエスバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになられました。

人間的に考えて、イエス様には必要ないでしょうと思われるこのことには、実は意味があるのです。

主イエスがいよいよ働きを始められる出発となったのでした。

時々どうして洗礼を受ける必要があるのですか?という質問を受けることがありますが、イエス様がバプテスマを受けられたのですから、神の子となるために私たちが洗礼を受けることは当然のことでしょう。私たちにとっても出発点なのです。

いえ、洗礼を受けることなくして、神様との生ける交わりは始まらないのです。

主イエスは、ユダヤ人だけでなく世界中の人の救い主となるため、罪人の中に自分自身も入って行き、バプテスマをお受けになられたのでした。

主は私たちと同じになってくださった。

私たちもそれぞれに与えられた人生の道筋をまっすぐに生きてゆきたいと思います。