2023年11月19日の説教要約 「エルサレム会議」

2023年11月19日の説教要約

      「エルサレム会議」      中道善次牧師

 

  ≪使徒言行録 15章1~6節≫

 

使徒15章は、エルサレム会議と呼ばれる箇所で、最初の教会会議です。AD49~50年の出来事であります。

この会議で議論された主題は、外国人伝道についてでした。外国人がイエス様を信じて救われるところまでは、コルネリウスの救いで、保守的な人々も理解を示しました。それが使徒11章でありました。

ところが、割礼というユダヤ教信者になる儀式を抜きにした回心は問題ではないかということを言い出した人がいました。15:5によると、それを言ったのは、ユダヤ教の中でも厳格なファリサイ派から信者になった人々でした。

彼らは、外国人でクリスチャンとなった人々にも、割礼を施すべきであると言ったのです。

私たちは、主なる神様が、そしてそこにおられた聖霊様がどのように会議を導かれ、御心をお示しになられたかを、ご一緒に学んでゆきたいと思います。

 

 

1、聖書の幅広さ

アメリカの神学校で学んでおりました時、私の尊敬する旧約の教授が次のように言った言葉を忘れることが出来ません。多くの教団、教派があり、彼らは「私たちの教団は聖書的です」と言います。その通りです。

なぜなら聖書は、多くの教団、教派が主張することを聖書の中にちゃんと記しているのですから。

ペンテコステ系の教会の主張、ホーリネス系の教会の主張、改革派神学の主張など、すべて聖書の中に記されているのです。それは聖書が持つ幅広さなのであります。

使徒言行録15章で、お互いの考えが異なる人々が登場するのですが、聖書はそれらの人々を「信仰者」として受け止めているのです。

一般にも、右から左までという表現がありますが、ここでは信仰姿勢で右から左までの人々が会議に参加しているのであります。

ざっくりというなら、4種類の立場の人々であります。

超保守派    穏健保守派    穏健進歩派    急進派、自由派

超保守派が、割礼派と呼ばれる人々であります。5節に「ファリサイ派から信者になった人」とあります。

穏健保守派は、ここではヤコブであります。彼はイエス様の弟であり、この会議でも議長でした。それが分かるのが、13節と19節であります。ヤコブの手紙を書いたのも、ここに出てくるヤコブであります。

穏健進歩派は、ここではペトロであります。ペトロはご存じのように12使徒のリーダーであります。ここでもペトロの発言が大きな影響力を持っていました。それが7~11節です。ペトロの言葉の影響力が、12節に記されています。「すると全会衆は静かになった」。うんうんと頷いたのです。

最後は、当時では急進派のパウロバルナバでした。彼が主張したのは、神さまの恵みが大切なのだから、私たちはユダヤ教の律法に縛られる必要はない。

今の私たち、プロテスタントからすると、パウロが王道を行くように思います。しかしこの時代は違いました。

キリスト教がスタートしたばかりで、ユダヤ教の母体からようやく出ようとしている時だったのです。

この時の主流は、よりユダヤ的な生き方を重んじる人々であり、ヤコブがみんなからの尊敬を受け、会議の議長をしていたのです。

パウロの態度、発言が過激で、受け入れられない人たちが大勢いて当然だったのです。

ここを見てわかるのは、スタートした当初から、今のような教団教派のような立場の違いが見られたのです。

第一ポイントから聞き取るメッセージは、聖書の幅広さです。そしてそれを私たちの身に着けることです。

急進派とみられていたパウロは、敵対する勢力と思える人々のことも認めていたのです。

それはフィリピへの信徒の手紙1章14~18節です。そこをお読みします。

フィリ1:14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。

 

 

2、お互いの違いを認めた人々

この会議で大切なことは、相手の立場を尊重して、対話が出来ることであります。

先ほどの4グループで言うなら、直接対話が難しいのが、ファリサイ派から信者になったグループとパウロバルナバを支持する人々であります。

A、B、C、Dで言うなら、AとDで距離があったのです。しかし橋渡しをしてくれる人がいたのです。

それが保守的穏健なヤコブであり、進歩派で穏健なペトロだったのです。

ペトロが15:7~11で発言すると、みんなが静かになったのです(15:12)。

そしてヤコブが、それらの発言を受けて、聖書の中から引用するのです。

それが16~18節です。これはアモス書9章11~12節の引用であります。

穏健保守派のヤコブが、権威である旧約聖書を引用した。

そして19節で結論を述べるのです。

使徒15:19 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。

しかし、律法を重んじる人々への配慮も忘れていない。それが20節です。

使徒15:20 ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように、

ヤコブは、お互いの違いを認め、それぞれを尊敬するように結論を出したのです。

保守的なヤコブは、異邦人の救いを認めながらも、異邦人からの回心者が、恵みによって救われたのだから何をしてもいいのだというようにならないため、20節の言葉を言ったのです。

そしてヤコブパウロもまた、お互いの立場を超えて、尊重し合ったのです。

一般的な理解で言うなら、ヤコブが手紙で書いていることとパウロが言っていることが正反対のように思えるのです。

例えば、ヤコブ2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことが出来るでしょうか。

「信仰のみ」を言っているパウロと正反対のことを言っているように思います。

しかしそうではありません。パウロの教えを誤解する人たちがいたのです。彼らは、信仰さえあれば、行いはどうでもいいと言ったのです。ヤコブの言葉は、パウロの教えを正しく理解しない人々への警告だったのです。

パウロもまた、信仰と共に行いが大切であると述べているのです。

それがガラテヤの信徒への手紙5章6節です。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

極端な律法主義者は、割礼があればいい。律法を持っていればいいと言いながら、実践しなかったのです。大切なことは、愛の実践を伴う信仰、両者はそこで一致していたのです。

彼らが互いを尊敬するもう一つの個所があります。

使徒21章で、ヤコブパウロのことを心配し、誤解を招かないように助言したのです。使徒21:18~26

使徒 21:18 翌日、パウロはわたしたちを連れて、ヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。 19 パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。20 これを聞いて、人々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。21 この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣例に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。22 いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。23 だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。24 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活をしている、ということがみんなに分かります。25 また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちはすでに手紙を書き送りました。偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」26 そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた。

 お互いが相手のことを配慮しあうのです。それぞれの立場の違いを認め合いながらです。

 

 

3、会議で決めたことを守った人たち

 第三ポイントで学びたいことは、会議で決めたことを守る大切さです。

 決めたことを、決めた通りに行う。それが聖霊を崇めることです。

 何故なら、会議の締めくくりでヤコブが言ったのです。みんなで決めました。それだけなら単なる民主主義です。しかし使徒15:28でヤコブは次のように言っています。「聖霊とわたしたちは、〇〇のことに決めました。」

 そしてそれが実行されたのが、パウロの弟子の一人であるテトスのことでありました。

テトスは、パウロバルナバが伝道していたアンティオキアの出身で、アンティオキア教会でパウロによって救い導かれたと想像することができます。

パウロがテトスを導いたことは、次の言葉から分かります。

テト 1:4 信仰を共にするまことの子テトスへ。

不思議なことにテトスの名前は使徒言行録には出てきません。

しかしここにテトスがいたであろうと想像できる箇所があります。それが今日の個所です。

使徒 15:1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣例に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。

使徒 15:2 それで、パウロバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と争論とが生じた。この件について、使徒や長老たちと協議するために、パウロバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムに上ることに決まった。

エルサレム会議の結論は、「割礼なしでOK」でした。

使徒 15:19 それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはいけません。

その会議の結論通りに対応されたのが、テトスに対してでありました。

ガラ 2:1 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。

ガラ 2:3 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。

テトスは、異邦人クリスチャンの代表、あるいは初穂、最初の救われた人と呼ばれる人でありました。

異邦人の中から救われたテトスが、割礼を受けないで、そのままでクリスチャンとして認められて嬉しい。

そのような喜びが伝わってくるのです。

そして、エルサレムの人たちは、自分たちが会議で決めたことを大切に守ったのです。

それが教会を大切にすることです。教会で決めたことを大切にすることです。

それは自分たちの決めたことを大切にするだけでなく、それを導いて下さった聖霊を重んじることであります。