2023年11月12日の説教要約 「生ける神に立ち帰るように」

2023年11月12日の説教要約

                        「生ける神に立ち帰るように」  中道由子牧師

 

《あなたがたがこのような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。》(使徒言行録14章8節~20節)

 

1、自分の足で立ちなさい

 パウロの第一伝道旅行のリストラで起こった事件です。

ここで彼らは、まず生まれながら足のなえた、歩いたことがない人に出会います。

彼は、パウロの説教に耳を傾けて聞いていたのです。

9節に「この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、」とあります。

パウロは説教しながらも、自分の語る一言一言を吸い込むようにして熱心に耳を傾けている一人の男に気づいた。そして、彼の内に、み言葉に対して率直に反応する信仰の純粋さのようなものがあるのを見て取ったのでしょう。

 説教を語るというのは、ある意味で人々にチャレンジを与えるものだと思います。

み言葉が受け取れなくて、反発している反応を感じてしまうこともありますが、

その中で、やはり語る言葉が吸収されていく、そしてその会衆によって準備していた以上の説教が引き出されていくこともあります。

 10節でパウロが「自分の足でまっすぐ立ちなさい」と大声で言うと、その人は躍り上がって歩き出したのです。

 彼は福音を受け入れている人だったので、パウロも信仰によって自分で立つように命じたのでした。信仰が先に与えられた結果、癒しが起こったのです。

神様はその人その人の霊的状態をご存じで、一人一人を導かれます。

  

2、ゼウスとヘルメスの再来か

 リストラの人々はあまりにもその奇蹟が驚きであったためか、声を張り上げてパウロたちのことを「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言い出したのです。

そればかりか、バルナバが品位もあり風格も備わっていたせいか、彼をギリシャ神話の主神ゼウスと呼び、パウロからは「おもに話す人」という印象を受けたので、神々の使者、雄弁の神として知られるヘルメスと呼んだのです。

そして、ゼウス神殿の祭司まで連れて来て、二人にいけにえを献げようとしたのです。

人は神に造られた存在ですから、神にはなれません。

仏教では死んで仏になり、成仏して神になるそうですが、その成仏した神は天地創造の神とは違う存在です。いずれにしても土の器である私たち人間が、陶器師である神に向かって何を成すことができるでしょうか。

 ここで、民衆が自分たちを神に祭り上げようとしているのを知ったバルナバパウロは、憤りや嘆きを表すユダヤ人の習慣に従って自分たちの上着を引き裂いて、群衆の中に駆け込んで行って語り出します。

 

3、パウロの異邦人向け説教

 ここでのパウロの説教は、予期しなかった事態を収拾するために、いわばぶっつけ本番的に語ったものでした。

この時、パウロは、ユダヤ人の時とは違って、旧約聖書を引用しませんでした。

聴衆が異邦人だからです。

「生ける神に立ち帰るように」と言って、この「生ける神」とはどんなお方か、彼らが理解できる方法でパウロは3つの面から紹介しています。

 まず第一に、このお方は人間を含め、天地万物を造られた創造者なる神だということ。

 第二に、この「生ける神」はまことに忍耐深い、寛大なる神を紹介しています。

 第三に、この神は恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、食物をほどこして、人々の心を喜びで満たしてくださる、自然界を支配しておられるお方である。

 この創造者なる「生ける神」が、なぜこのように寛容で恵み深いのかと言うと、人々がむなしい偶像礼拝を捨てて、「生ける神」に立ち帰るようになるためです。

私たちはこの「福音を告げ知らせている」宣教師だとパウロは説明したのです。

リストラでの伝道は、思いがけない迫害から突然終わることになります。

 

4、信仰のフォローアップ

 そしてその翌日、パウロバルナバと共に次のデルベと言う地に向かったのでした。

それから二人は、いろいろと問題の起きた地、リストラ、イコニオン、アンティオキアと、来た道を引き返していったのです。

またどのような目に遭うかもしれないという危険も顧みず、その地の弟子たちを訪れては「この信仰に踏みとどまるように励ました。」(22節)のです。

今日の言葉で言うならば、フォローアップです。彼らは信仰のアフターケアーのために、もう一度時間を割いたのでした。

その中で彼らは、自分たちの経験を生かし、またこれから直面するであろう患難を予測しながら、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(22節)と語ったのです。

さらに自分たちがいなくなっても、教会をしっかり守って運営し、活動していけるようにと、二人は教会ごとに長老たちを選んで任命したのです。

適切な人を選び祈って、主にお委ねしたのです。

いかに彼らが後に残していく教会を愛し、心に深く重荷として覚えていたかが伺えます。パウロバルナバは「彼らをその信ずる主に任せた。」(23節)のでした。