2023年7月16日の説教要約 「神のもの」

2023年7月16日の説教要約

                              「神のもの」   中道由子牧師

 

《売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思い通りになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。》(使徒言行録4章32節~5章11節)

 

1、必要に従って分かち合う生活

 祈りによって一つとなった初代教会の聖徒たちは、神の共同体がどのような姿であったかを教えてくれます。それは、自分の利益を求めず、ほかの人々の必要を満たし、協力し合う姿です。彼らは互いに自分のものを分け与え、ほかの人々の生活に関心を持ちます。誰かがそのような生活を強要したわけではありません。

聖霊によって一つとなった信者たちが一つの心と思いを抱いた結果、互いの持ち物を共有し、自分の所有を主張しない形へと自然になったというのです。

彼らは神の御心のうちに集まり、そこには互いを顧みる愛の行為がありました。

その結果、信者の中には乏しい者、貧しい者がいませんでした。

この夏も教会学校のキャンプがあり、教会学校会計からサポートがあります。 

子供たちを喜ばせるだけでなく、その救いを願っているのです。

それは、教会の皆さんの献金で成り立っている愛の行為であり、救いを祈る信仰の現れであります。教会という団体はどこからの強制力もない共同体です。

けれども、確かな神の家族なのです。

 

2、バルナバの献身

 ここにその模範例としてあげられているのが、バルナバの行為です。

彼の本当の名は「ヨセフ」ですが、「バルナバ」(慰めの子の意)と呼ばれていました。聖書の中で好きな人は誰ですか?と聞かれて、第一位に登場するのがこの人です。

誰でも、あのような人になれたら、このような人と親しく話せたらと思うことがあります。キリスト教の迫害者だったパウロエルサレム教会に紹介し、第一伝道旅行でホームシックで逃げ帰ってしまったマルコを育て、パウロが認める人に成長させました。

この人のそばなら緊張しないで、自分が自分のままでいられるような感じがします。

彼はエルサレムの近くに畑を持っていましたが、その畑を売って使徒たちの前に持ってきました。それだけでなく、福音伝道のために残りの生涯を主にささげました。

彼が売った畑は一区画になっており、決して高額のものではなかったようです。しかし、彼は自分ができるだけのことを主の前にささげたのでした。

彼のことを見ていくと、彼が神の働きのために自分の土地を売ったお金を差し出したことは彼にとっては自慢するようなことではなく、当然のこととしてなされた行為だったとわかります。

神は、このように献身的な人物を通して教会を建てていかれるのです。

 

3、神の御霊を試みてはならない

 初代教会は今や祝福の絶頂期に達しました。しかし悪魔はそれを憎み、誘惑します。

 ここで登場する人物は、アナニヤとサフィラという夫婦です。

彼らはバルナバたちの行為に刺激されてか、自分たちの地所を売り払って、その代金の一部を残しておき、2節「土地の代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」のです。

問題は売却金を一部分だけ持ってきたことにあるのではありません。

後で、ペトロがサフィラに8節「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。」と尋ねた時、彼女は「はい、その値段です。」と偽りの答えをして、いかにも全部ささげたかのようにみせかけたことが問題なのでした。

そして、これは夫婦が共謀してのことでした。彼らは資産家でした。

彼らがささげた土地の一部の代金は、バルナバが土地を売ってささげたものより、はるかに多かったようです。神に献金をささげるのに、多いか少ないかは重要ではありません。

初代教会は献金を差し出すことを強要しませんでした。

しかし、彼らはみんなと同じように愛のささげものをしているという誉れだけは欲しかったのです。

ここを読むと、神様、厳しすぎませんか?と、優しい天のお父様が急に雷を落とされるように感じてしまいます。

しかし、マタイによる福音書12章32節によると「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」とあります。

ペトロは、4節「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」と言っています。そして、9節「二人で示し合わせて、主の御霊を試すとは、なんとしたことか。」と。自分たちの罪を知っていながら、赦すかどうか、主の御霊を試した、聖霊を欺いたのです。

彼らが地所を売って代金を手にした時、聖霊が、この代金は他の人たちがしているようにささげるようにという示しがあったに違いないのです。土地はそのために売ったのです。しかし、その時サタンが執拗に、売却金の一部を自分たちで持っていてもわかりはしないといざなった。葛藤がしばらく続いた後、ついに彼らは聖霊の声を退けて、サタンに心奪われてしまった。

2節の「ごまかし」という行為は、「着服する」、別の訳では「盗む」とされています。一度神にささげた物を自分のものとした。このままにしておけば、初代教会の霊的祝福は足元から崩れていくところでした。

アナニヤは、お金をすべてささげる人が信仰が大きい人であると考え、人々から認められたくて、自分の信仰を大きく見せようとしたのかもしれません。

聖霊が私たちに願われるのは、自分の信仰を実践する生活です。