2023年7月9日の説教要約
「神の御心を求める」 中道善次牧師
≪使徒言行録 1章15~26節≫
今日は、裏切ったユダの後に入る弟子の選びを学びます。それはマティアと言う人でした。
彼が選ばれたプロセスを学びながら、私たちが主の御心を求めること学んでゆきたいと思います。
1、くじを使った聖書の人々
ルカは「くじ」を引くと言うことが新約時代にもなされていたことを記します。それは、使徒1:26のユダの後継者を選ぶところと共に、もう一つの個所で紹介しております。
ルカ1:9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。
旧約聖書を見ると、多くの場合「くじ」は、ウリムとトンミムを指しております。
出エジプト28:30 裁きの胸当てにはウリムとトンミムを入れる。それらは、アロンが主の御前に出るときに、その胸に帯びる。・・・
ウリムは「光」、トンミムは「暗さ」と関わる言葉であります。
旧約学者関根正雄先生によりますと、おみくじがさいころのようなものであり、ある事を判定の際に用いたのであります。ウリムとトンミムは、是か非か。YESかNOを祈りながら、主に示していただくときに用いたようであります。
旧約聖書の中で、ウリムとトンミムを用いて、神の御心をうかがった事例を紹介します。
それはダビデが荒れ野を逃亡中、ケイラを助ける時に用いたところであります。
サムエル記上23:1~12で、ダビデが主に託宣を求めている箇所だけここに引用します。
サム上 23:2 ダビデは主に託宣を求めた。「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか。」
ダビデは、イエスかノーを尋ねている主はダビデに言われた。「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え。」
サム上 23:4 ダビデが再び主に託宣を求めた。主は答えられた。「立て、ケイラへ下って行け。ペリシテ人をあなたの手に渡す。」 ここも託宣により、イエスを確認している
サム上 23:6 アヒメレクの子アビアタルが、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、彼はエフォドを携えていた。祭司の胸当てであるエフォドの中にウリムとトンミムが入っていた
サム上 23:9 ダビデはサウルが自分に危害を加えようと計画しているのを知って、祭司アビアタルに、エフォドを持って来るように頼んだ。
サム上 23:11 ケイラの有力者らは、サウルの手にわたしを引き渡すでしょうか。僕が聞いているように、サウルはケイラに下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ、どうか僕にお示しください。」主は、「彼は下って来る」と言われた。
サム上 23:12 ダビデが、「ケイラの有力者らは、わたしと兵をサウルの手に引き渡すでしょうか」と尋ねると、主は「引き渡す」と言われた。
旧約のくじは、けっしてギャンブルではありません。
むしろ、あなたがおっしゃることなら従います。そのような態度であったのです。
ダビデにとって、「サウルが攻めてくる」「ケイラの人々はお前たちをサウルに引き渡す」
とてもこのような言葉を聞きたくありません。普通なら、主が守れられる。ペリシテ人から助けてもらったケイラの人々がお前たちを命懸けで守るであろう。聞きたいのはそのような言葉です。
しかし私たちが主の御心を求める時に忘れてはならない大切なこと、それは「あなたのおっしゃることであれば、それに聞き従います」であります。
2、使徒たちの御心の求め方
マティアが、裏切ったユダの代わりに12使徒として選ばれました(使徒1章26節)。
ここには、神の御心を求める三つのプロセスがあることが分かります。
使徒として選ばれる条件が21~22節に記されています。
使徒1:21~22 そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼(バプテスマ)のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中から誰か一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
ここから使徒となるべき条件が二つ分かります。3年間、主と共に生活した人。復活の主に出会ったことです。
これらは、ある基準にしたがって、御心を求めたということであります。
第二番目に、上記の人々の中から、ヨセフとマティアの二人が候補者として挙げられました。それは彼らの信仰者としてのこれまでの歩みを、他の弟子たちが見て、推薦したからであります。それは人間の判断です。聖められた理性と言ったらいいでしょう。
ここまでは、私たちがある物事を決める時と似たようなプロセスであります。
そして最後のプロセスで、彼らは、祈って「くじ」を引く方法を取ったのです。
くじを引く人たちは、どちらが選ばれてもOK、受け入れる、そのようなことでありました。
「くじ」を引くことで、彼らが主の御心を求めた。そこから、大切なことを学ぶことができます。
それは自分の意見、主観的なモノの見方にこだわらないことであります。
旧約聖書のエレミヤ書には、人々が御心を求める時に、とても自己中心であったことを示す記事があります。
バビロンによってエルサレムが滅ぼされた後、生き残った人々は、預言者エレミヤに主の御心を求めたのです。
彼らがエルサレムの周辺地域にとどまった方が良いか、エジプトに逃れた方が良いかの二者択一でした。
エレミヤ42:5~6 (一部引用) あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声を聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから。」
ここでは模範的な答えをしているのです。
エレミヤが10日後に出した結論は、エジプトに行ってはならないというものでした。
それに対して彼らは次のように答えたのです。
エレミヤ43:2 ・・高慢な人々はエレミヤに向かって言った。「あなたが語っていることは偽りだ。我々の神である主は、『エジプトへ行って寄留してはならない』と言ってはおられない。
彼らはエレミヤの言葉に従わず、エジプトに行ったのです。しかもエレミヤもエジプトに連れて行ったのです。
私たちは時に、自分の意見を通すために神を利用しようとします。気を付けなければなりません。
3、私たちが御心を求める時
さて最後に、私たちが主の御心を求めることについて、ガイドラインのようなものをお示しします
伝統的に語られてきたことを紹介します。
1.聖書の御言葉を求める:
2.祈りの中における平安。
3.信頼出来るクリスチャンの先輩や指導者からのアドバイス。しかしこれは一人に限ります。
4.回りの環境を良く見る:環境を通して主が語られることがある
これらの四つのことは、大きな四本の柱です。それに三つのことを加えます。
5.時間をかける:主の御心は短絡的に判断するより時間をかける事が必要であります。
6.自分の意思を主に申し上げることも大切です。主は私達の意思も尊重されます。
7.家族にかかわるようなことは、家族の一致が必要です。
最後に覚えていただきたいことがあります。
それは私たちが主の御心を求めることは簡単でないことです。
私の友人は、クリスチャンとして生きることは、いつも主の御心を考えて生きることだといいました。