2021年2月14日の礼拝説教要約  「天地の造り主を信じる」

2021年2月14日のオンライン礼拝説教要約

         使徒信条 「天地の造り主を信じる」 中道善次牧師

 

                                                            ≪創世記1章1と29~31節≫

 

今日は使徒信条の「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」の前半の「天地の造り主を信じる」ことを共に学んでゆきたいと思います。

私が使徒信条からの説教を準備するとき、目を通す本の一つが「ハイデルベルク信仰問答」です。

その「父なる神について」の項目を紹介します。

問26 「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と唱えるとき、あなたは何を信じているのですか?

答え  天と地とその中にある全てのものを無から創造され、それらをその永遠の熟慮と摂理とによって、今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられるということです。わたしはこの方により頼んでいるので、この方が身と魂に必要なもの一切をわたしに備えてくださること、また、たとえこの悲しみの谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることをわたしは疑わないのです。何故なら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです。

単なる信仰問答を越えて、私たちの信仰を励ます言葉が書かれています。

 

①天地を造った神

神が天と地を造られたことは、創世記1章に記されています。

ハイデルベルク信仰問答では、無から有を造られたことであり、今もそれを保ち支配しておられるとあります。

神が造られた天地、それは「よい」ものであった。創世記1章には、「見てよしとされた」という言葉が5回出て来ます。二日目を除き、1、3、4、5、6日に出て来ます。

その五番目の言葉が、1章25節です。

創 1:25 神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て、良しとされた。

そして天地創造の結論が1章31節です。こう記されています。

創 1:31 神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

極めて良かった。ヘブライ語では、トーブという「よい」をあらわす言葉が、二度繰り返されているのです。

私たちが、天地創造で覚えたいことは、神様はよいものを造られた。この地球は、よいもので満ちていた。そのよいものを、神様は造っただけでなく保っておられるのです。それが、地球の運行であり、太陽が昇り、そして沈むことであり、季節が巡り、雨が降り、食べ物が育つことであります。

しかしその美しく造られた地球を私たち人間が、破壊しようとしているのです。

地球温暖化、自然破壊、動物の乱獲などです。

しかしそのような現象が起こる前のことですが、ハイデルベクル信仰問答には、不作やひでりも、また、神の御手の中にあるというのです。問27を紹介します。

問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。

答え  全能かつ現実の、神の御力です。

それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。

茅ヶ崎教会の祈祷会で、ヨハネ黙示録を学んでおります。黙示録5章を学んだ時のことです。5章4節に出てくる言葉があります。それは世の終わりに関する巻物が出てくるのです。その巻物は封印がしてあり、誰も開く者がいない。それでヨハネは泣き出してしまった。ここで何故そんなに激しく泣いたのか。

チャック・スミスという牧師は、世の終わりの事について書いてあるこの巻き物は、地球の権利証書のことである。この地球は、神のものです。その地球の権利証書は2通あり、1痛は神様が持っておられ、もう一通は、人間に渡されたというのです。

美しくよく造られた地球を、今も支配し、保っておられる神様の御手を信じる。それが私たちの信仰告白であります。

 

②私を造った神

第二に学びたいことは、この地球を造られた神は私も造られたことを信じることです。

それが創世記1章27節に記されています。

創 1:27 神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。

そして造られた人間を見て、神がおっしゃったのは、31節で述べられた言葉「極めて良かった」です。

天地を造られた神が、この私を造られた。神に造っていただいた私は、ベリー・グッドな存在なのです。

ある方は、自分を見て、どこがベリー・グッドだ。いいところなんか一つもないと思うかもしれない。

そうかもしれません。私たち人間は蛇であるサタン・悪魔にだまされて罪を犯しました。そして堕落しました。その堕落した状態はベリー・グッドからはほど遠いのです。

しかし天地を造られた神は、もう一度無から有を造り出すように私たちを作りかえて下さったのです。それが2コリント5:17です。

コリ2 5:17 だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。

私たちはイエス・キリストを救い主として信じることで、新しく作り変えられたのです。

そして、神様によって造られた私たちは、神の作品であります。ある英語の表現ではマスターピース、傑作と訳されている言葉です。

エフェ 2:10 私たちは神の作品であって、神が前もって準備して下さった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。

私たちの中からよいものが出てくる。よいものを生み出すことが出来る。そのように作り変えられたのです。

私は天地の造り主を信じますという告白をするとき、私も造られました。いや、造りかえられましたと告白できるのです。

 

神の摂理を信じる

「天地の造り主を信じる」という告白と結びつく言葉は、摂理を信じることだと多くの解説書が述べています。

ここでもう一度、ハイデルベルク信仰問答から引用します。

問28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような恵みを受けますか。

答え  わたしたちが逆境においては忍耐強く、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どのような被造物もこの方の愛から私たちを引き離すことはないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは、動かされることも出来ないからです。

信仰問答という言葉を聞くと、堅苦しい響きがあります。

しかしハイデルベルク信仰問答の中には、どのような恵みを受けますか。別の箇所ではもっとはっきりと「どのような利益を受けますか」と尋ねるのです。信じているものにとっての利益を、祝福を教えてくれるのです。

神の摂理を信じる。それは斜めから物事を見る人にとっては、おめでたい、都合がいい、そのような神の信じ方であるといっていいのです。

しかし、そのおめでたい人の代表と言えるのが旧約聖書に出てくるダビデです。

ダビデは、自分が書いた詩篇の中で、次のように告白しました。

詩 57:3 私はいと高き神に 私のために(すべての事を)成し遂げて下さる神に呼びかけます。

それとよく似た言葉をダビデは、サウルという王様に追われて、荒野を逃亡するとき、両親をエドムの王に預けるとき、言っているのです。

サム上 22:3 さてダビデはそこからモアブのミツパに赴き、モアブの王に言った。「神が私をどのようになさるか分かるまで、私の父母をあなたの庇護の下に置いてください。」

「どのようになさるか」というのは、先が見えない不安ではなく、神様がこれから、私のためにどんなすばらしいことをしてくださるか分かるまでと言う楽観的な響きがあるのです。

新約聖書では、パウロが摂理の信仰を次のような言葉で述べています

ロマ 8:28 神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。

万事とあります。そこには、どうしてこのような目に遭わなければならないのかということが含まれているのです。パウロ自身が直面したことで言うなら多くの迫害を受けたことです。仲間から裏切られたということがあります。

しかし、「神様どうして?」と思うような中でも、神の摂理の御手が全てのことを一点に向かわせるように働くのです。それが「益となる」ことです。それは自分にとって都合のよい益ではないのです。

むしろ、他の人のための益であるかもしれません。そしてここでは「益」というより「善」と訳すべきだと言う人もあります。

その善とは何か。神様にとっての最善であるのです。摂理の信仰。それは最善以下をなさらない神を信じることです。