2021年3月7日の説教要約 「神の独り子イエス」

2021年3月7日のオンライン説教要約

                   使徒信条 「神の独り子イエス」   中道善次牧師

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

             ≪ヨハネによる福音書 3章16節≫

 

 ①神であり人である

使徒信条の中には、当時争われましたイエスについての教理のことが含まれています。

エスが100%神であられ、100%人であられることが使徒信条の告白の中に含まれています。

当時、イエスが神であり、人であることについて異なる教えがありました。それは神人両方100%と言うことはあり得ないと思う人々がいたのです。

一つは、イエスは神であるけれども、真の人ではなかった。幻のような幻影であった。

それに対して聖書は、十字架にかかったイエス様のお体を指したら水と血が出て来た。これはイエスが肉体をお持ちであったことの証拠であります。

エスが人間であることが、「マリアから生まれ」という告白の中に含まれるのであります。

もう一つは、逆の考えです。イエスは人であった。しかし神ではなかった。ただ一時的に神の力を受けて、奇跡を行われたのだ。そしてイエスに宿っていた神の力は、十字架にかかる前に取り去られた。

エスが神であられたことは、変貌山で、お姿が変ったことが何よりも証拠であります。また、十字架の上でも神であられたのです。イエスは、十字架の上でも、救いを与える権威を持っておられたのです。全地が暗くなり、神殿の幕が上から裂けたこと、それが神の御子である証拠であります。「その独り子」という言葉から、イエスが神であることが告白されているのです。

エスが神であるという告白、それを出しているのがトマスであります。トマスは疑い深い性格でした。しかし復活されたイエスが、両手と脇腹を示して、信じない者にならないで、信じるものになりなさいと言われた。その後で「私の主、私の神」と告白しております。

エス様が人となられた。フィリピの信徒への手紙には、神と等しくあることに固執しようとは思わず(2:6)とあります。私が聖書学院1年生の時、お世話になった信徒伝道者の方は、「謙遜の全能」という言葉を使われました。

使徒信条の言葉は、それぞれ繋がっているのです。「我は全能の神を信じる」とあります。その神の全能が一番表されたのが、イエスがマリアから生まれ人間となられたということであります。

 

②神の子でありマリアの子

神の独り子、それはイエス様が父なる神からお生まれになった事であります。私は、イエスは永遠の存在であられるから、最初からおられたのだと思っていたのです。はじめに言があった(ヨハ1:1)という言葉からもそう思っておりました。

ところが聖書は、神の子が生まれたことを「永遠の誕生」と呼びます。

それが書かれている一つが箴言8章です。ここでは「人格を持った知恵」として描かれています。「66巻のキリスト」という書物では、この知恵とは、「はじめに言があった」と言われるお方であると記します。またコリント書やコロサイ書では、「神の知恵であるキリスト」という表現があります。

箴言8:22~27を紹介します。

箴 8:22 主はその道の初めに私を造った いにしえの御業の始まりとして。箴 8:23 とこしえより、私は立てられていた 太初より、地の始まりから。箴 8:24 まだ深淵もないとき 私は生み出されていた 大いなる原初の水の源もまだないときに。箴 8:25 山々もまだ据えられず、丘もないとき 私は生み出されていた。箴 8:26 神が、まだ地も野も この世界の塵の先駆けさえも造っていなかったとき箴 8:27 神が天を確かなものとしたとき 私はそこにいた。神が深淵の上に蒼穹を定めたとき

エスは神の子、また、私たちも神の子です。しかし、私たちは「養子」です。神から生まれたお方は、イエスお一人。私たちは、イエスの贖いによって、神の子どもとならせていただいたのです。

次に「処女マリアから生まれ」について学びたいと思います。

キリスト教を信じることの躓きの一つ、それは処女降誕を信じることであります。

中学や高校で生物学を学ぶと、どのようにして動物が、人間が生まれるか。それは精子卵子が結合することによって生まれるのです。それを私たちは学ぶのです。知恵であり、知識であります。

マリアとヨセフは、そのような学校教育を受けていなかったでしょう。それでも、男性と女性の性の営みがなければ、子どもは生まれないことを彼らは知っていたのです。

それなのに、天使が現れて、マリアに対してもヨセフに対しても、これは聖霊によって宿った子どもだと告げたのです。マリアとヨセフは、人間の知恵を超えた神の知恵を知っていたのです。

それが「我は天地の造り主、全能の父なる神を信じる」という信仰告白です。

最初の人間アダムとエバが生まれたときには、人間の性の営みはなかったのです。神が御手により天地を造り、神が人間の形をした土の塊に命の息を吹き入れ、人を造られたのです。

もう一つ、処女からイエスが生まれることが必要であったのは、罪を持たない姿でイエスが生まれる必要があったからです。

「処女マリアから生まれ」とは、罪のない姿でイエスが誕生された。そのことの告白であります。

聖書は告げます。人は罪を犯して死ぬべき存在となった。もしイエスが、十字架につけられ、死んだままであったなら、罪の結果、死んだことになるのです。しかし、死からよみがえったことにより、このお方は、神であり、罪のないお方であったことが証明されたのです。

私たちが罪から救い出されるために、神の子イエスは処女マリアから生まれてくださったのです。

 

③神はその独り子をお与えになった

「独り子」という言葉ですぐに思い起こす言葉はヨハネ3:16であります。

ヨハネ3:16で述べていることと同じように、使徒信条は、イエス様がお生まれになったらすぐに、ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられと告白するのです。

エス様の御生涯について、その教えや奇跡について、使徒信条では触れないのです。

神の独り子が、処女マリアから生まれた。そして十字架について、死んだ。

今週3月9日の聖書日課で、マタイ21章33節からの「ぶどう園の主人」の譬えを学びます。

私は加藤常昭先生が、その箇所から語られた説教をいつも深く心に留めております。その説教の中で、加藤先生は「お人好しの神」と表現しておられるのです。

「私の息子なら敬ってくれるだろう」(37節)というぶどう園の主人の言葉に対して、加藤先生は次のように言われます。「このぶどう園の主人は、人がよいにもほどがある」。私たちなら、自分の息子なら敬ってくれるなどとは思わない。僕たちがこれまでひどい扱いを受けて来た。それなのに、なお農夫たちを信頼して、息子を送るというのです。

並行記事のマルコ福音書12:6には、「その人には、まだ一人、愛する息子がいた」とあります。

独り子であります。この父は、その独り息子を送ったのです。

それは、神の独り子であるイエスがこの地上に送られてきたことを示唆する譬えであります。

加藤先生は、説教でこう続けられます。「私たちにはそのようなことは出来ない。何故なら私たちは人間関係に傷つき過ぎているからだ」。本当にそうだと思います。

しかし神は、どんなに傷付くことがあっても、裏切られるようなことがあっても、農夫たちの事を信じ切っておられる。この物語は、神の真実は何があっても変わらないと私たちに語っている。

「独り子をマリアから生まれさせた」。そこに、私たちを愛して止まない神の愛があるのです。