2020年10月25日の説教要約

                                    「再び会える」  照内幸代牧師

<イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟なたちのところへ行って、こういいなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところに私は上る』と。」

               (ヨハネによる福音書 20章17節)

 

マリアの喪失の経験

本日の聖書箇所に出て来るマリアという人は、ここで大きな喪失の体験をしています。直前の19章では、主イエス様が十字架にかかって、墓に葬られたということが書かれています。マリアは日曜日の朝を待ち望んでいました。そして日曜日の朝を迎えるや否や家を飛び出すようにして、このイエス様が埋葬された墓へとやって来たのでした。一体なぜでしょうか。それはイエス様の遺体に香料を塗って差し上げるためでした。主イエス様は、自分の命を救ってくださった。こんなによくしていただいた。それなのに自分は、イエス様に何もお返しすることができなかった。ただイエス様を喪失したということに留まらず、自分は何もできなかったという深い後悔の念が、マグダラのマリアの内には残っていたのです。その後悔を少しでも払拭すること、それがイエス様のご遺体に香油を塗り直すということだったのです。しかし、香油を塗り直そうとお墓に行ってみると、お墓に蓋をしていた大きな石は何故か転がされていて、イエス様のご遺体がお墓になかったのです。最後まで自分は無力だったというやり場のない虚しさだけが残ったのです。

 

・復活のめぐみ

私は教会で働くお仕事をさせていただいています。教会の大切な働きの一つが、葬儀をするということです。その葬儀で何が語られるかというと、それは復活の恵みが語られるのです。マリアはお墓の前で泣き、せめてご遺体に対してよいことができたらということを願って墓に行きます。しかしその彼女の願いはかないませんでした。かないませんでしたが、それよりも遥かに大きなわざが起きるのです。

 

エス様は、復活なさって、マリアの前にもう一度現れたということです。聖書は、まことの神なるイエス様が、人の姿となってこの地上で生まれ、私たちの罪の贖いとして十字架にはりつけにされ、死んで葬られ、三日後に甦ったということを伝えています。そもそも聖書では、神様が人間を造られたと書かれており、人間は初め死ぬ存在ではありませんでした。ところがアダムとエバが神様との信頼関係を裏切ったときから、永遠なる神さまとの関係が切れて、人は死ぬものとなったと言っています。

 

しかしまことの神、まことの人間である主イエス様が、私たちの罪の贖いとなって十字架にかかり復活されたことを信じるのならば、私たちもイエス様と同じ神の子となって、死んでも復活する恵にあずかることができると約束しています。ですから葬儀では、地上でしばしお別れする寂しさをいたわりつつも、やがて再会できる恵が語られます。先に天にお送りした方々はそのことを信じて希望をもって地上の生涯を歩まれたのです。聖書に出てくるパウロという人は、「もし復活ということがなければ全ては空しい」と言っています。どうしてこの地上で生きるのか。自分の命に何の意味があるのか。復活ということがなければ、それは全て無意味なこと、なかったことと同じになってしまうからです。

 

マリアがイエス様のご遺体を失って泣いているとき、まさにそのイエス様が背後に立たれました。自分とイエス様をつなぎとめるものは、もうイエス様のご遺体しかないとマリアは思っているわけです。イエス様はそんなマリアに、「マリアよ」と声をかけられました。きっと十字架にかかって亡くなる前、いつもマリアに話しかけていたような、そういう優しい愛に溢れた声で、お声をかけられたのだろうと思います。マリアも、へブル語で「ラボニ」と言いました。きっといつも、このイエス様と過ごした日々の間、この二人は、「マリア」「ラボニ」と呼び合っていたのだと思います。もう一度大切な人の名前を、呼ぶことができる。これが復活の恵みだなぁと思います。

 

・まとめ

キリスト教の葬儀は明るいね、と言っていただくことがあります。綺麗な礼拝堂で、百合の花を飾って、賛美歌を歌って、牧師先生の話を聞く。人が亡くなったのに、明るい感じがすると言っていただくことがあります。最近では結婚式だけでなく、キリスト教の葬儀を気に入ったと言って、キリスト教の葬儀をあげるという方もいらっしゃいます。なぜかと言えばそれは、教会では復活を信じているからです。今地上で会えないことは寂しい。でもそれは一時的なことであって、やがて時が来たときに再会することができると信じているからです。葬式というときに、この恵が語られるのが教会であるなぁと思います。主イエス様は、その復活の恵みを私たちに与えるために、十字架にかかって、先に甦ってくださったのです。