2020年7月12日の説教要約  「イエスにあやかる」

2020年7月12日の説教要約

                                 「イエスにあやかる」  中道善次牧師

                                                     <ローマ書6章1~11節> 

 

ローマ6章1~11節から洗礼について、またクリスチャンになることの祝福を学びたいと思います。

 

アブラハムの祝福にあやかる

私たちが分厚い聖書を持っている理由、それは旧約聖書に出てくるアブラハムの祝福をイスラエルが受け継ぎ、その祝福がイエスを信じる私たちに与えられるからです。

聖書の祝福の原点は、アブラハムです。彼はユダヤ民族とアラブ民族の祖先といわれる人です。

神は、創世記12章で、アブラハムに現れておっしゃった。

私はあなたを祝福する。新共同訳聖書では、創世記12:2を「祝福の源となるように」と表現していますが、新改訳聖書2017は、「あなたは祝福となりなさい」と命令形になっています。

協会共同訳の注には、「祝福となれ」という命令形が可能であると書かれていています。

ヘブル原文を直訳すると『あなたは祝福になります』です。

英語を見ますと、you will be a blessing です。

あなたは祝福になります、あるいは、なりなさい。これは洗礼を受けてクリスチャンになった一人一人へのメッセージです。

聖書は、アブラハムの祝福の姿を、繁栄や成功でなく、自分自身の「肯定」、すなわち、存在そのものが祝福になる姿を描くのです。それが創世記12:1~7に描かれています。

アブラハムの肯定は、神の命令に対して、何も言わずに従ったということです。この時のアブラハムは、75歳でした。この時のアブラハムを、従業員300人を抱える牧畜業の会社の社長のように理解することができます。アブラハムは、神の声を聞いて、家畜も僕もその家族もみんな連れて、神の示されるカナンの土地へ移住したのです。会社なら、「社長、そんな無謀なことをして大丈夫ですか?」といわれるようなことでした。しかしアブラハムは、神の言葉を否定することなく、そのまま受け取り、従ったのです。

アブラハムの肯定は、7節によりよく見られます。思い切った決断をして、長い旅をして目的地に着いたのですが、そこには先住民がいました。シケムは当時の先端を行く都市国家でした。城壁に囲まれた町がそびえています。それだけでない。信仰の自由を求めてきたアブラハムにとってショックだったのは、モレの樫の木、すなわち、大きなご神木が立っていたのです。

そのような時に、神はもう一度アブラハムに現れて言われたのです。

「あなたの子孫にこの土地を与える」と。

ここを注解した宗教改革をしたカルバンは、アブラハムは「裸の言葉を信じた」というのです。

裸の言葉とは、担保がない。保証がない。口先だけの言葉に聞こえるということです。

でも神の言葉だけで十分ですとアブラハムは受け止めたのです。

アブラハムは、神の語られる言葉を肯定したのです。それが「アブラハムが祝福となった」ことです。

やがてそれは神を知らない人々にもわかるようになります。

創 21:22 そのころ、アビメレクとその軍隊の長ピコルがアブラハムに言った。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」

聖書を信じる人々が、こだわり続けたのは、アブラハムに約束された祝福を、受け継いできているということです。

このアブラハムの祝福、そしてそれを受け継いできている人々であるユダヤ人は、「アブラハムさんのように祝福されますように」と挨拶のときに交わすそうです。

「あなたのしあわせにあやかりたいわ!」 そういわれたら悪い気持ちがする人はいないでしょう。

パウロと言う人は、ユダヤ人がこだわってきた「アブラハムにあやかる祝福」は、ユダヤ人だけのものではなく、全ての人に及ぶのだと、思い切ったことを言うのです。それがガラテヤ3:8~9です。

ガラ 3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。

ガラ 3:9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されていいます。

あなたがイエス・キリストを信じるなら、聖書がアブラハムに約束した祝福に預かる者、あやかる者となるのです。

 

②イエスの十字架の復活にあやかる

洗礼式の意味、その祝福を第二ポイントでお話しします。

エスの十字架の復活の姿にあやかる。それが洗礼であります。

ローマ6章1~11節を読みました。この箇所には洗礼のことが書かれています。

新共同訳聖書だけが、「あやかる」という言葉を使って5節を訳しています。

新共同訳聖書:「もし私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」

新改訳2017の注には、「つぎ合わされる」という別の訳も可能であると書かれているのです。

パウロの言葉を思い起こします。「つぎ合わされる」とは、パウロがローマ11章で喩えている言葉で言うなら、「接ぎ木」であります。

自分は、何のよい実も結ばない渋柿のようなものです。その私が、キリストと結び合わされて、つまり、接ぎ木されたなら、キリストの養分に預かり、よい実を結ぶようになるのです。

それが、イエスにあやかるという意味であります。

本来の自分は全くそうでないのに、キリスト様の十字架の死と復活にあやかるのです。

それが洗礼であります。全浸礼では、まず、古い自分に死ぬというお葬式を、水の中につかることでするのです。そこでキリストの死と同じ状態、その姿にあやかるのです。

そして全身が浸されたところからあがってくる。それはキリストの復活の姿と同じなのです。自らあがってくることで、キリストの復活の姿にあやかることが出来るのです。

言葉を換えれば、イエスが十字架と復活で成し遂げてくださった恩恵に、洗礼によってあずかるのです。ですから洗礼は、ただの儀式ではありません。洗礼という儀式によって、私たちはイエスと結びつくのです。その姿にあやかるのです。自分には、自分の内には本来なかった祝福が流れてくるのです。私たちもまた、イエスの祝福にあやかりたいのです。

旧約聖書アブラハムの祝福にあやかりたいのです。

あなたと一緒にいると神様の祝福があるように感じますと周りの人々から言われるようでありたいと思います。