2022年1月9日の説経要約 「あなたのために行きなさい」

2022年1月9日の説経要約

    「あなたのために行きなさい」   中道善次牧師

 

≪主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて 私が示す地に行きなさい」≫

                              (創世記12章1~3節)

 

今年から、私が説教をする時にはヘブライ語を一つ取り上げるようにしております。それは「ヘブライの宝物」という書物に出会ったことがきっかけです。

その本を読みながら、一つの言葉が目に入ってきました。それはレーフ・レッハ、あるいは、レフ・レハーであります。

この言葉に出会うのは、はじめでではないのです。

以前にヘブライ文学博士が書いた創世記の書物を学んだときにも、この言葉に出会いました。

ヘブライ語の原文では、「私の示す地へ歩け(レーフ・レッハ)」となっているのです。

その先生は、レーフ、「歩け」の方に強調点を置いて3通りの訳を紹介しておられました

Walk by yourself   あなた自身で歩きなさい

Walk to yourself   あなた自身に向かって歩きなさい

Walk for yourself   あなた自身のために歩きなさい。

今回読んだ「ヘブライの宝もの」は、レーフ・レッハを「あなたのために」と訳しております。

「レッハ」というヘブライ語を「あなたのため」と理解するのです。それが強く心に響いたのです。

創世記12:1は、神の命令であります。しかしその命令は、「神のために何かをしなさい」ではなく、あなたのために歩きなさい、なのです。それは命令を受けた人に利益を及ぼすものであります。

この一年、どのようなことが待っているか分かりません。しかし私たちはそれぞれ、人生という歩みをいたします。神様に従って生きてゆきます。その時に心に刻んでほしい言葉は、レーフ・レッハ、あなたの為に行きなさいという聖書の言葉であります。

 

1、あなたの良き将来の為に

ここに登場するアブラハムは、既に75歳でありました。5節を見ると「蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共に」出かけたとあります。

それがどのぐらいのものであったか、一つの想像ができます。創世記14:14にある「彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者318人」という言葉であります。

アブラハムは地方豪族と言われるような立場でした。今で言うなら従業員300名以上抱える牧畜業の会社の社長であったのです。

それなのに行く先を知らないで財産である家畜をつれて、働いている人々とその家族を連れて移住を決断した。

ヘブライ11:8には次のようにあります。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」

いくら何でも無謀です。会社の取締役会があるならば、社長以外みんな反対すると思います。

これまで私は「信仰の冒険」という言葉や「服従」という視点からこの箇所を理解しておりました。

しかしレッハという言葉を理解して始めて分かったのです。これは無謀な行為ではなかったのです。

アブラハムが、神様が語った言葉を正しく受け止めていたからこそ、出来た服従でありました。

それがレーフ・レッハ「あなたのために行きなさい」だったのです。

 ここから分かることは、神が「レッハ」という言葉を語られたことから、アブラハムの為に良き将来を望んでおられたことが分かるのです。

 無謀なことでも、危険なことでもない。あなたの将来の為だ。祝福の為だ。

 行き先が分からなくても、「あなたのためです」という言葉だけで、約束だけで十分だったのです。

 神様がこの一年を始めるに当たって、どのような具体的な道が示されるかは分からなくても、「あなたの為に行きなさい」。あなたを祝福します。それに聞き従いたいと思います。

 この言葉と共鳴するように、神がエレミヤを通して語られた言葉が響いてきます。

 エレミヤ29:11 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

 

 

2、神のおっしゃることに間違いはない

もう一カ所、レーフ・レッハという言葉を神はアブラハムに語っておられるのです。

それは意外な箇所であります。創世記22章です。アブラハムがイサクを献げる箇所です。

創世記22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」

行きなさいと訳されている箇所が、レーフ・レッハなのです。

後半を直訳すれば、「あなたのために行きなさい。モリヤの地へ。」

ここを理解する聖書解釈がいくつもあります。

a.当時の異教の習慣を断ち切る為にあえて命令を出した。

b.初子は神のものであるから、初子を献げる為の命令である。

c.ヨブ記と同じことが天で起こっていた。アブラハムの信仰が悪魔から訴えられたので、アブラハムが神を第一とするかどうかがテストされた。

d.そして何よりも、独り子を献げるという神の痛みをアブラハムが理解する為である。それは神の独り子イエスの十字架を指し示している。

主な解釈を紹介しました。しかしそれらのことは、この出来事が終わってから、後の世の人々が、この出来事に対する解釈を施したことであります。

しかし当事者であるアブラハムは、いろいろと考える時間はなかったのです。アブラハムは翌朝従ったのです。旅の準備がありますから、ほとんど悩んでいる時間などなかったと思います。

ではどうしてアブラハムが従うことが出来たのか。

それは、レーフ・レッハ、あなたのために行きなさい。かつて神様が自分に語られたのと同じ言葉がかけられたからです。

そこに行く目的は、イサクを献げることであります。しかし神様がアブラハムに告げた言葉は、レッハ、それはあなたの為なのだ。

アブラハムはかつて「あなたのために行きなさい」といわれて約束の地に来ました。

その通り祝福されました。その経験があるから、今回も、これはわたしのためなのだと受け止めたのです。

あなたの為に行きなさいというアブラハムへの二度目に言葉を、私たちが受け止めるならば、それは十字架を負って歩むことであります。

エス様は、従ってくる弟子たちに次のように言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)

私は長いこと、この言葉を受け入れたくないと思っていました。

しかしイエス様にとって、十字架はただ苦しいだけではない。イエス様にとって十字架は使命だったのです。全ての人々を罪から救う為に、どうしても成し遂げなければならない使命だったのです。

その使命を果たす為には、苦しいこともあります。重荷を背負うこともあります。

十字架を負うことが使命なら、私も十字架を負って歩める。イエス様が私に与えてくれた使命のために歩むことが出来ると思いました。

少し飛躍する理解になるかもしれませんが、アブラハムはイサクを献げる時に、心の中で、次のように問いかけていたのではないかと思います。

神様、この命令「あなたの為に行きなさい」は、将来の十字架を私に教える為ですね。だからこれは、私の為なのですね。

私たちは、神様何故ですか?そのように問うことがあります。

しかしそれは、ここには何の目的があるのですか?そう問うべきであります。

そして行き着く目的は、これは私の為ですね。そのように受け止めることが「レーフ-・レッハ」という言葉から聞き取ることが出来るのです。