2022年3月27日の説教要約  「主の山に、備えあり」

2022年3月27日の説教要約

           「主の山に、備えあり」  中道善次牧師

                                             ≪創世記 22章14節≫ 

 

今日、覚えていただきたいヘブライ語は、ヤーウエ・イルエです。

 

1、アドナイ・エレからヤーウエ・イルエ

ヤーウエ・イルエという言葉が語られるに至った聖書の物語を紹介いたします。

これは創世記22章で、アブラハムが、神様から「独子イサクを献げよ!」と命じられ、それに従って行動した直後に語られた言葉です。そのところをお読みします。

創 22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子(イサク)を屠ろうとした。

創 22:11 そのとき、天からの主の御使いが、「アブラハムアブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

創 22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

創 22:13 アブラハムが目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

創 22:14 アブラハムはその場所をヤーウエ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

聖書を物語として読んでいると、はらはらどきどきです。アブラハムにとって絶体絶命の試練です。そう思っているのに、神様の側ではちゃんと、結論を用意しておられた。献げる雄羊を備えておられたのです。

神様は、この試練を通して、アブラハムをじっと見ておられたのです。その信仰をテストしておられたのです。

この言葉は、これまで出されてきた聖書を見ると、違ったカタカナ表記で記されています。

文語訳では、エホバ・エレでした。私たちは神様のお名前は今ではエホバではなく、ヤハウエ、ヤーウエであると知っています。しかし文語訳の時代は、エホバと表記しておりました。

次に口語訳ですが、アドナイ・エレとなっております。

エレは同じですが、アドナイは? アドナイとは、「ヤーウエ」という神の名を口に出してユダヤ人が発音しなかったのです。その代わりに、わが主と言い換えたヘブライ語であります。

後半のカタカナ表記が変わったのは新改訳聖書からです

新改訳も新改訳2017も、アドナイ・イルエ

新共同訳では、ヤーウエ・イルエ

エレを、よりヘブライ語に近いカタカナ表記に変えました。それがイルエであります。

イルエには、二つの意味があります。新改訳2017を見ますと、主が備えて下さる、主が見て下さる。この二通りの意味が書かれています。

しかしどの聖書も、創世記22:14を、カタカタのヘブライ語で書いたのです。聖書が、当時使われていた原文をそのまま表記している場合、これをそのまま覚えてほしい大切な言葉としている現れなのです。

私たちの祈りの中で、主よ、見ていて下さい。主よ、必要を備えて下さい。

見たもう神、備えたもう神という代わりに、ヤーウエ・イルエ。そのように唱える口に出す価値のある言葉です。

 

2、見たもう神

イルエというヘブライ語の原型はラアーです。

ラアーは、見るという意味であります。ラアーという言葉から派生した言葉であります。

神様、あなたは見ていてくださる御方です。

第二ポイントでは、ヤハウエ・イルエは、見たもう神、としてメッセージを受け止めたいのです。

創世記は、神様がアブラハムを見ておられただけでなく、ハガルも見ておられたと告げるのです。ハガルという女性が出てくるのは創世記16章です。

ハガルはエジプトで得た女性の奴隷です。奥さんのサラに仕える人でした。

アブラハム夫妻は愚かな決断をしました。子どものいない自分たちに子どもをもうけるためにハガルを通して、イシュマエルという子どもをもうけたのです。

16章で、ハガルが妊娠したことが分かったのです。するとハガルは女主人サラを見下すようになった。サラはそのことが我慢ならない。そして女奴隷ハガルを追い出すのです

ハガルは行く当てもなく荒野をさまようのです。ところが主の使いが現れて、女主人のもとに帰りなさい。そう言われ、へりくだってサラに再び仕えるのです。そしてイシュマエルが生まれるのです。

ハガルは、女主人から見捨てられ、逃げているときに、自分のことを、見ておられる神に助けられる経験したのです。

それがヘブライ語になって書かれているのです。

「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)」創世記16:13

ロイは直訳では「見る方」です。ラアー(見る)という動詞が語尾変化しているのです。

ところが、新共同訳は「私を顧みられる神」と訳しております。それは心配して見ている。見守っているという意味です。

神様は、ハガルだけでなく、ハガルから生まれたイシュマエルをも心配しておられることが21章を見ると分かります。私はここに、公平な神様を見いだすのです。

 

3、備えたもう神

イルエは、ラアーの変形であると申し上げました。

ずいぶん昔に、このことはヘブライ語の辞書をあちらこちら引きながら学びました。

「見る」という言葉がもとになっています。それと備えるがどうして関わるのでしょうか。

神様の見つめ方があります。それは、愛の眼差しです。どうなるかと心配しながら見つめることであります。そのように見つめていると、その子のために何かを備えてやらなければならないと気づくことがあるのです。それがイルエを、見るだけでなく「備える」と訳す要因ではないかと思うのです。

それはちょうど、歩き始めた子どもを親が見つめるようなことに似ています。一人で歩いて欲しいので、後からじっと見るのです。しかし転ばないだろかと心にかけるのです。あるいはもし邪魔なものが行き先にあるとすれば、それを先回りして取り除く。そのような配慮をしながら、一人で歩いて行けるように見守る。そのような愛の眼差しであります。

神様はアブラハムをじっと見ておられたのです。神様も、どうなることかとはらはらしておられたかもしれません。しかしアブラハムはやってくれると信頼していたのです。その信頼の証が、備えてあった雄羊です。

あなたの人生をじっと見ていてくださる神様が、あなたに必要なものを備えてくださるのです。いつも優しい愛の眼差しを向けてくださるのです。