2020年9月6日の説教要約 「笑わせてくださる神」

2020年9月6日の説教要約

                  「笑わせてくださる神」   中道由子牧師

   

≪神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。」≫

(創世記17章1~8、19節)

 

1、新しい名

ハガルがアブラムとサライのもとに帰ってから、13年という年月がゆっくりと流れていきました。ハガルから、アブラムの子イシュマエルが生まれて、一族の公認の跡取りのように見えたのです。

13年という長い間、神様は現れませんでした。新しい言葉も聞かれませんでした。ハランにおいて神がアブラムに語りかけられて以来、このような長い沈黙はありませんでした。それは、アブラムにとって、暗いトンネルの中でした。彼は、しばしば以前に与えられた神の約束に帰り、あれは何だったんだろうか?ただの幻だったのかと思わずにはいられませんでした。このようにして、誰の目にもイシュマエルがアブラムの後を継ぐように見えた時、アブラムが99歳の時です、神が現れ、契約を再確認されます。カナンに来て、はや24年の歳月が流れていました。 忘れていた頃道が開かれていく、神様の時と人間の時の大きな違いを感じます。

私たちにもあるかもしれません。あんなに祈ったのに、あの時答えられなかった祈りが、今このような形で?と思えることが。

 1節で主は「わたしは全能の神である。」とご自身を紹介されました。「全能の神」とは、ヘブル語では「エール・シャッダイ」といって、祝福を注ぎだすという意味もあるそうです。

主はこの聖名によって、人間にはできないと思われることでも「全能の神」にはできないことはない、ということを示そうとされたのです。そして、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」と言われた。

私たちは悲しいことに、この言葉「全き者」という言葉につまずいてしまいます。全能の神の前に完全な者、欠点のない者となれと言われるのだろうか?もしそうならば自分には無理です、と言わざるを得ません。

主の前を歩むとは、いつも主の御顔を意識し、主のご臨在のうちに生活することです。わかりやすく言うと、神様との関係においてまっすぐな者となる、そして、主の恵みの中で生きることです。起こってくるすべてのことを、主との関係の中でとらえて生きるということなのです。全き者ということは、決して完全な人間になれということではない。たとい欠点だらけの人間であっても、「神とのまっすぐな関係の中で神に応答する者であれ」と言われているのです。私たちの人生は、その重き荷を自分自身で負うことはできないのです。だからこそ、神との関係の中で生かされ、支えられ、主がともに歩んでくださっていると感じて初めてほっと安心して生きられるのではないでしょうか?

神様はそのような関係をアブラムに求められた。不完全で、失敗の多い者であっても、大丈夫。主が全能の神であられる故に、アブラムにそのような信仰を与えることができるのです。

 神様はアブラムとの契約を覚えておられた。ここに、「あなたとの間にわたしの契約をたて」とあります。他の人ではない、あなたとたてた契約なのだ、とアブラムを1個の人格として扱っておられる。全能の神であるお方が、不完全な人間と契約を結ばれたのです。普通契約書には、日にちがあり、いついつまでにという期限があります。しかし、この契約は神様ご自身が定められた契約であり、7節には「永遠の契約」と書かれています。

つまり、期限が切られていない契約、いつまでも有効な契約であるということです。そのような一方的な恵みだとしか言いようのない契約をいただいたのであります。

そして、契約の内容ですが、まだイシュマエルが生まれて、この子にだけ希望を持っているアブラムに「あなたは多くの国民の父となる」と言われて、もっと多くの国民の父となる、という意味のアブラハムという名前に変えなさいというのです。

これはアブラムから多くの子孫が生まれるという以上に「いくつかの国民となって、その中から王様が出てくる」ことを意味しています。アブラムは、アブラハムとなりました。将来彼の子孫イスラエルは多くの国民の指導者となるのです。

 名前が変わるってただの形式だけではないです。皆さんの名前が変わった時がありますか?結婚するとき、名字が変わる、これは人生の大きな節目です。カトリックでは洗礼名をいただくといいますが、霊の誕生を意味します。アブラハムの場合は、神様ご自身が名前を変えてくださった。ここに希望があります。自分では変わろうとしても変えることができない自分を、主は変えてくださるのです。のちにアブラハムの孫のヤコブは、イスラエルと名が変わります。シモンがペテロと呼ばれるようになったのもそうです。

アブラハムは、名前が変わり、その名前の通りに神様が与えた目的に従って歩んでいくようになります。

 

2、サラが受けた約束

 主はアブラムの名をアブラハムと変えた後、サライをもお取扱いになられました。

彼女の名をサラに変えてくださったのです。

17章15節「神はアブラハムに言われた、『あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。』」

サラとは「王女」という意味です。主はこのように夫だけでなく、妻も共に祝福にあずかるために整えてくださるのです。一時は仕え女のハガルに自分の妻の座を差し出すようなことをしたサラでした。アブラハムの祝福は、自分にとっての祝福であることをなかなか信じられないサラでした。

しかし、この時初めて、主はアブラハムの子孫は「サラによって」与えるとはっきりおっしゃった。その子供から多くの国民が生まれ、サラは「諸国民の母」となると約束されました。これはサラに語られたのではない、アブラハムに語られました。

アブラハムは、主に感謝しましたか?アブラハムは主の前にひれ伏していましたが、この主の言葉に対して、笑っていたというのです。彼は語られた内容を信じることができなかったから、笑ったのです。ひそかに、17節「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」と。そして、彼は自分の方から神様に提案しました。18節「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」

彼は自分の考えに固執していました。「神様、私は今十分満足しています。」

彼は主の言葉よりも、現実に目の前にいるイシュマエルに期待をかけたのです。「神様、私は年をとりました。この老人に、またこのサラのような老女に何を期待なさるのですか?」

 コロナ禍の中にありますが、教会が現状に満足することなく、前を向いて行きたいと思います。

 サラから子供が生まれるという予言は、妻であるサラにも告げられました。

18章に入ります。主のみ使いが思いがけない時にやってきました。アブラハムが住んでいた天幕の入口に座っていた時に、しかも普通の旅人のような姿で現れました。砂漠の中で旅をする人をもてなすのは当時の常識でした。アブラハムは、すぐにサラの所に行って、ごちそうを用意するように言いました。彼らは、アブラハムに「妻のサラはどこにいますか。」と尋ねてきたので、「天幕の中にいます。」 と答えると、一人の旅人は、こう言います。「来年の今頃また来ますが、その頃には、サラに男の子が生まれるでしょう。」これを、後ろの天幕の入り口で聞いていたサラは、ひそかに笑ったのです。今度はサラが笑いました。主はそのサラの心を見抜いて、アブラハムに「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。」と言っているのを聞いて、サラは恐ろしくなって、「わたしは笑いませんでした。」と打ち消したのですが、「いや、あなたは確かに笑った。」と。サラが自分自身にも失望していましたが、神様の約束にも失望していました。そんな時に、神様は「あなたは私の約束を笑ったね。」ととがめるのではなく、「では、あなたを笑わせてあげよう。『年をとった女から子供が生まれた。神様は約束を果たしてくださるお方。』と笑わせてあげよう。」とおっしゃったのです。

 神様は「その子の名を『イサク』と名付けなさい。」と命じられた。「イサク」とは、「笑い」という意味なのです。アブラハムの疑いの笑いでもなく、サラの失望からの笑いでもありません。主の約束が成就したことへの喜びの笑いなのです。私たちの人生にも、このような笑いをたくさん経験したい。主が神であられるから、「ああ、やっぱり神様は生きておられる。」と私たちに驚きを与えてくださいます。