2020年9月13日の説教要約 「賛美する事を学ぶ」

2020年9月13日の説教要約

     「賛美する事を学ぶ」   中道善次牧師

            <出エジプト 15章20~21節>

 

葦の海を渡った直後に献げられた賛美(出エジプト15章)から学びます。

 

① 主を喜ぶ賛美

出エジプト15章を読んでまいりますと、葦の海を渡った勝利に対して、2種類の賛美が記されていることがわかります。

第一は、1~18節の賛美であります。

第二は、21節でミリアムが、ダンバリン(小太鼓)を使って賛美した短い賛美であります。

第一の賛美は、救いの出来事を振り返り、時間をかけて、言葉を選びながら、作り上げた賛美であることがわかります。

第二の賛美は、神さまの恵みの御業に感動して、ハレルヤ!と思わず口から出てくるような、霊によって歌う賛美であります。

この二つの賛美が、それぞれ、いつ歌われたかという時間的なことを考えました。

出エジプト14章で葦の海がわかれて、イスラエルの人々がその中を通りました。その直後に、歌われたのは、20~21節の賛美であります。

出 15:20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。

出 15:21 ミリアムは彼らの音頭をとって歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。

一般の言葉を使うなら、即興の賛美です。しかしそれは、聖霊により導かれた賛美、聖霊が与えてくださった賛美なのです。

ミリアムは、聖霊によって「賛美」を与えていただき、小太鼓、ほかの訳では、タンバリンを使い賛美したのです。楽器を使って神を賛美したと聖書が記しておりますのは、ミリアムが初めてであります。

ミリアムがここで初めてタンバリンを使って賛美したのではないのです。タンバリンという楽器をいつも使って賛美するチームをミリアムは作っていたのです。それは、女たちも続いて出て来たという言葉からわかります。幼い頃からミリアムは賛美の賜物があり、女性たちのグループを作って、踊りと共に賛美していたのであります。ここでなされたのは即興の賛美であったかもしれません。しかし今までの練習の積み重ねがあったのです。

ミリアムの賛美から私たちは学びたいと思います。

 

② 賛美することを学ぶ

次は1~18節の賛美を学びます。この賛美には、楽器はありません。音楽を用いた賛美ではありません。この賛美は言葉でなされた賛美です。そこには神学があります。歴史があります。神の救いについて、深い信仰の考えがあるのです。

これを「モーセの歌」、あるいは、「勝利の歌」と言いますが、これは賛美の見本と言われるほど、洗練された言葉遣いが見られます。

2節:「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」は、詩篇118:14とほとんど同じです。詩篇118篇と出エジプト15章の賛美が、響き合っているのです。

出 15:6 主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。

詩篇118:16にも「右の手」が出てきます。

次に学びたい賛美の大切な言葉は、「あなたのような神は、おられません」です。

出 15:11 主よ、神々の中にあなたのような方が誰かあるでしょうか。誰が、あなたのように聖において輝き、ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行う方があるでしょうか。」

同じような表現が、列王記上8:23のソロモンの祈りの中に出てきます。

王上 8:23 (ソロモンは)祈った。「イスラエルの神、主よ。上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はありません。

次に、13節から後ですが、ここは、荒れ野の導きを歌っているものです。13節は約束の地までの導き、14と15節は、周辺諸国に対する勝利であります。

13節以降から分かることは、この賛美の後半部分は、約束の地に到着してから作られたのであります。この賛美は、時間をかけて、言葉を練り、人々が歌い継いでゆくように編集されたのです。

私たちは、賛美する事を学ぶ必要があるのです。賛美の言葉を教えてもらう必要があります。

それは音楽のことではないのです。賛美の言葉を学ぶ事です。

日本のクリスチャンの多くは、祈りの始まりの部分で、「御名をたたえます」で終わり、すぐにお願いに入ります。一度、お願いの言葉を全く使わない祈りをしてみて下さい。

 

③ つぶやきを賛美に変える

次は、荒れ野の旅が始まった出エジプト15章22~24節であります。

出 15:22 モーセイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。

出 15:23 マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。

出 15:24 民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。

イスラエルの人たちは、あれだけ大きな経験をして、賛美したのに、たった3日して、もうつぶやいているのです。しかしよく聖書を学んで行くと、荒野を歩くことは大変な事であることをしりました。

F・B・マイヤーからの引用です。

『目の前まで見えなくなるような砂嵐、ぎらぎらした太陽の照り返し、それに日陰も木も水もないという最初の日の旅は、疑いもなく骨身にこたえるものであった。皮袋に入れてきた水は熱くなり、のどを潤さなくなった。二日目も同じように辛かった。木も命のしるしも水もない地平線の単調さを破るものは、何ひとつとしてなかった。明日になったら、まめの出来た足や熱っぽい唇はどうなるかと考えると、不満を言わないまでも多少の思い煩いが生じるのを抑える事は困難となった。それに水の補給は底をついていないにしても、残りはごくわずかになっていた。三日目の朝となった。多分モーセは、そんなに遠くない所に水のある所を知っていて、人々に頑張るようにと励ました。一日も終わりに近づき、はるか彼方についに目当てのものを認めた時、彼らは歓声をあげた。彼らは疲労も不平も窮乏もすっかり忘れて、足早に泉に向った。ところが、夢中で飲んで見ると口が苦くなった。この時の落胆は、いかばかりであっただろうか。そこで人々はモーセに食って掛かり、つぶやいた。』

ここでいう苦い水とは、簡単に言うと、塩気がある水のことです。

イスラエルの人たちは、たった3日ですが、彼らは、忍耐して旅を続け、モーセに従って荒野を歩いていったのです。やっとたどり着いた井戸の水が苦くて飲めなかった。彼らにとっては生きるか死ぬかの問題だったのです。

神は、彼らのつぶやきを聞かれたのです。出エジプト15章には、「彼らのつぶやきを聞かれた」という表現は出てきません。しかし16章には3回も「つぶやきを聞かれた」という言葉が出てくるのです。

出 16:9 モーセはアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平(つぶやき)を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」と言うと、

イスラエルの人々が必要としている場合、たとえそれが呟きであっても、神は、耳を傾け、その必要なものを与えなさるのです。

神を賛美する事を一生かけて学びたいのです。