2020年9月20日の説教要約
「背負ってくださる神」 中道由子牧師
≪わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちをを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。≫ (イザヤ書46章1~4節)
敬老感謝礼拝です。年を重ねるとは、誰かに頼り、支えられ、背負われることが必要になります。
- 最後には倒れる神
イザヤ書46、47章はバビロン滅亡の預言が書かれているところです。
イスラエルの民が、主の警告の通りにバビロンに捕囚になると、彼らはいやおうなしにバビロンのいろいろな偶像の神に接することになりました。しかし、すべての偶像は、人間を苦しめる重荷にすぎず、最後には壊されてしまいます。ここに、「ベル」という名の偶像と、「ネボ」という名の偶像が出てきます。1節「ベルはかがみ、ネボは倒れ伏す。」
「ベル」はバビロンの太陽神マルドゥクの別称です。「ネボ」は、ベルの子で学問の神とされていました。バビロンの民は、これらの神々が自分たちを守り、戦争で勝たせてくれると信じていました。捕囚生活を送っていたイスラエルの民は、これらの偶像の前で委縮し、自分たちをみじめに思っていました。しかし、力強い神だとあがめられていたこの「ベル」と「ネボ」はむなしい偶像にすぎません。偶像のベルとネボは、巨大な偶像だったそうですが、祭りの際には動物の背に乗せられていたそうです。偶像礼拝者は、形式や義務感に縛られ、心身共に疲れ、重荷を負っていました。 ペルシャの王クロスの軍隊が攻めてきたとき、ベルとネボは何もできないまま動物の背中で運ばれる、ただの荷物となりました。バビロンの民は、自分たちが仕えていた偶像を運ぶために、無駄に力を使って倒れていきます。その途中で捕らえられて、偶像は戦利品として持ち去られてしまったのです。
私の実家にも、仏壇があり、位牌があります。幼いころから、その仏壇にある位牌を見ながら、これに手を合わせると、ご先祖様を敬うことである。しかし、この位牌が人間をはたして救ってくれるのだろうか?と疑問を持っていました。
私たちはどんなに美味しいケーキをいただくと、作ってくださった方に「おいしいケーキを作ってくださってありがとうございます。」とお礼を言います。ケーキに向かって、「ケーキさん、ありがとう!」とは言いません。そのように、どんなに美しい山や海があっても、素晴らしいものがあってもそれらを造られたお方が真の神様です。その神様が私たちを愛し、造ってくださったのです。人間がつくった偶像は、決して私たちを背負い、救ってはくれません。
2、最後まであなたを背負われる神
イスラエルの主である神は、どんなお方だと書かれていますか?
3節「あなたたちは生まれた時から背負われ、胎を出た時から担われてきた。」
イスラエルの民の誕生の前から、アブラハムが生まれる前からイスラエルの民を担ってきたと言うのです。 神様は私たちが誕生する前から知っておられ、ずっと担ってくださっている、まだ胎児であった私たちを造り主は知っておられる。
バビロン捕囚にあって異国の地で年老いていくイスラエルの民も、自分の足で故郷イスラエルに帰るのは無理になるかもしれない、と希望を失っていました。そんな民たちに、自分の力で脱出できなくても、私があなたがたを背負ってでも連れて帰るから、と言われたのです。 私たちを造られた神は、苦しい時、弱った時、私たちの重荷になる神ではなく、弱っている時こそ私たちを担い、背負って助け、救ってくださるお方であります。
人間の重荷を背負ってくれる神こそ、真の神であります。私たちの重荷は、何か?と問われる時、私たちの心の問題、罪の問題があります。ヨハネによる福音書8章に姦淫の女が捕らえられ、律法学者、ファリサイ派の人々は、イエス様が民衆を教えている場にその女を連れて来た話があります。
イエス様はヨハネによる福音書8章7節に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われた。民衆の反応はどうだったでしょうか?もし私たちがこのように言われたらどうするでしょうか?女に石を投げますか?ここで9節をごらんください。「これを聞いていた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、」とあります。年長者が一番に自分はこの女を裁けないと感じて去っていったのです。ここに歳を重ねてきた方々の謙虚と賢さをみる思いがします。
老いるとは、また神の前に自ら立てるように整えられる時でもあります。
4節「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう。」。
聖書を見ると、白髪は良くないものではなく、尊いものです。
箴言16章31節を見てみましょう。「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」
白髪は神様と共に歩んできた証であるというのです。聖書の神様は、人が何かを出来るからという評価をしません。
吉山登先生の著書「老いは恵み」から引用します。
「老年の生き方は、生きているということを最も深く意識しながら生きるということではないかと思います。若い頃も、中年の頃もただ自分を頼りにして生きてきた人間が、老年になると、決定的に自分を捨てて、隣人を通して自分を生かしてくださる神に向かって、いよいよ自分を完全にお捧げする時を迎えるのです。それがいかに大きな犠牲を伴い、究極的には神の恵みを求める以外ないことを知らされます。自分では何もできずすべてを人の世話になりながら、自分の生の意識をますます深めている老人の心の中では、人間の最も尊い行為がおこなわれつつあるのです。」
たとえ病のために人間らしい最も尊い意識を失うことがあっても、一人一人の命は尊く、その人生は慕わしい。そのことを周りの人々に恵みとして届けるのは、老年の恵みです。
皆さんの存在がご家庭でも、教会でも必要なのです。皆さんの存在を神様は祝福しておられます。