2022年4月3日の説教要約 「生まれ変わらせる十字架」

2022年4月3日の説教要約

    「生まれ変わらせる十字架」  中道由子牧師

 

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。》

ヨハネによる福音書3章1~16節)

  

1、新しく生まれる

 夜、人目を忍んでイエス様の下に来た一人のユダヤ教の指導者がいました。

ニコデモという人でした。彼はイエス様に深い関心を寄せていて、イエスの行われた数々のしるしを見て、普通の人にはできない神のわざだと感銘を受けていました。

彼はイエスを教師としては尊敬していましたが、それ以上のお方であるという認識はなかったのです。

それに対して、イエス様は、単刀直入に核心をつく言葉を語られた。

3章3節「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」霊的誕生の必要を説いたのです。

この「新しく」と訳されている言葉は、「上から」とも訳せます。新しい誕生が母の胎からという下からではなく、上から、つまり神による超自然的、霊的な誕生であることを示しています。

この新しい誕生は、水と御霊によってもたらされる。

私たちは水の洗礼とキリストにより賜る聖霊によって新しく生まれるのです。

私たち罪ある人間は、この肉体をもった体の誕生の次に、このようにエス様と霊的に出会う第二の誕生が必要なのです。

新しく生まれるとは、神の御霊によるわざであります。

けれども、それがどのようにして起こるのかは誰も説明できないのです。

ギリシャ語で「風」も「霊」も全く同じ語「プニューマ」という言葉だと言います。

ヘブル語では、霊は「ルーアッハ」と言って、神様が塵から造られたアダムに命の息、霊をふーっと吹きかけて、アダムは生きるようになったところからきています。

ただの風ではない、命の息、聖霊であります。

それで8節では「風は思いのままに吹く。」とも訳せるわけです。

御霊の風は思いのままに吹く、とは御霊は好んで働かれるところに引き寄せられるように吹く。罪のある所、疑いのあるところ、争いのあるところに御霊は好んで吹かないのです。聖霊様がさわやかな風を吹かせたいと願うお互いでありたいと思います。

 

2、仰ぎ見て生きよ

 イエス様は10節で「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことがわからないのか。」と本当にがっかりされて、旧約聖書の話をされます。

 十字架の意味を明らかにするためにです。イエス様は14節でイスラエルの民が荒野で40年にわたってさまよった時の一つの出来事を引き合いに出されています(民数記21章4~9節)。食糧難と水不足に苦しんだイスラエルの民は指導者モーセに逆らいます。その罰として彼らは神が送られた燃える蛇にかまれて、多くのものが死んでしまいます。イスラエルの民は自分たちの不従順を悔いて、モーセに助けを求めると、モーセは神の命令に従い、青銅の蛇を作って旗竿の先につるしました。そして、その青銅の蛇を仰ぎ見た人は救われたのです。イエス様は、十字架を指して言われたのです。

イスラエルの民が神の約束を信じ、青銅の蛇を仰ぎ見て救われたように、十字架にあげられるイエスを信じて仰ぎ見る者は誰でも、永遠の命を神様からのプレゼントとして受けることができる。

ほかの何がなくても主の十字架を仰ぎ見る時、私たちの代わりに死んでくださった主を見るのです。

 

3、愛されてしまった

新しい誕生は、3章15節、16節では「永遠の命」が与えられるという表現になっていきます。16節は特に有名なみ言葉ですが、このような訳に出会いました。

「神はこの世を愛されてしまったのです。それで、独り子を与えてしまわれたのです。それは、彼を信ずる者はだれも滅びないで、永遠の命を持つためなのです。」

英語訳には”For God so loved the world, that he gave his only Son”

「このような事情で」という「なぜなら」の”For”が入っていますが、日本語訳には訳されていません。それまでの事情です。

キリストが光としてこの世に来られた時、この世はキリストを受け入れず信じなかった。また、強盗の巣となっていたエルサレムの神殿をキリストが清めると、ニコデモ一人を除くユダヤ人たちはこぞってこれに反対しました。

このように、人類の祖先アダム以来、事ごとに神に反逆し、神の御心を踏みにじってきた、「この世」、神の愛を受ける資格のない「この世」であるのに、神はそのような状況下において、そのような「この世」を愛されてしまったのです。

神に反逆し、罪の中にあるこの世を神は愛されてしまった。

神の独り子のキリストを憎み、受け入れもしないこの世を神が愛されてしまった。

その愛のゆえに、「独り子」というのは、「神と全く同質、同等の神の子」をこの罪の世に与えてしまわれた。

「与える」という語には、「送る」、「死に渡してしまう」という二つの意味があって、これは神の完全な放棄を意味します。

つまり、神はこの世の人々が神であるキリストを自由に十字架につけ、なぶりものにすることを許してしまわれたのです。