2020年12月20日の説経要約 「独り子をささげる愛」

2020年12月20日の説経要約

                  「独り子をささげる愛」   中道由子牧師

 

≪御使いは言った、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」≫(創世記22章1~14節)

 

 

 今日はアブラハムの信仰のクライマックスの部分から、クリスマスの神の愛につなげてお話しします。

 

1,信仰の試練

イサクが誕生し、様々な出来事の中にも順調に成長し、神の約束がこのまま成就して行くかに思われた時、神はアブラハムを試練に遭わせました。試練は突然臨みました。それも、約束の子イサクに関係のある試みでした。

2節「神は命じられた、『あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」

 モリヤという地は、神様の選びの地で、おそらく現在のエルサレム市内かその周辺の山地あたりです。やがて主イエス様はこのエルサレムで私たちの罪の贖いのために十字架にかかられるのです。

 全焼のいけにえにするためには、人は動物を殺さなければならない。そしてその後それを全部献げ、祭壇の上で焼いて煙にしなければならないのです。アブラハムはイサクを完全に献げるように命じられたのです。このような神の命令に対して、アブラハムは様々な点で反論することができたはずです。

第一に、「全焼のいけにえ」としてささげるということは、「人を殺す」ことになり、神ご自身の命令(創世記9章6節)に反するものです。

第二に、親が自分の子を殺すということは人情に反する。

第三に、イサクは神がアブラハムに与えた契約の子であり、このイサクを殺すことはイサクを通して成就するはずの神の約束と契約が無に帰するということです。

しかし、彼は反論せずに主の命令に従ったのです。なぜでしょう?

神は冷酷なお方ではなく、愛なるお方であることを信じていたのです。神が「献げよ」と言われるには、何か特別なご計画を持っておられると信じたのではないでしょうか。

神様が私たちに、私たちが最も大切にしているものを献げることを求められたら、私たちはどうするでしょうか?それぞれにとって大切なものは違うと思います。ある人にとっては、伴侶であったり、子供であったり、また孫であったりするでしょう?ある場合は、恋人であったり、親であったりもします。私たちが一生懸命働いてきた仕事であるかもしれません。また、自分自身が頼りにしてきたポジション、立場であったりということもあるでしょう。時には、主のために必死で仕えてきた奉仕でもあります。 

「それを献げなさい、私の手に委ねなさい。」と神様から言われたら、私たちはどうするでしょうか?

 アブラハムは主の命令に速やかに従いました。3節「アブラハムは朝早く起きて」事を実行に移したのです。主の命令には即座に従うことが、一番従いやすい道です。「後で」ということは、従うことをより困難にします。次に彼は、自ら労苦して主の命令に従いました。彼は自分で全焼のいけにえのためのたきぎを割って準備しました。

そして、3節「神の命じられた所に向かって行った。」

 彼には、神の命令に従うのだから、主は必ずご自分の計画を実現してくださるという確信がありました。それ故に彼は、従者に対して、5節「私と息子は、、、また戻って来る。」と言うことができたのです。

 

2,主の山に備えあり

アブラハムたちが住んでいたベエル・シェバからモリヤの地まで3日にわたる旅路でした。とうとう3日目になって目的地が見える所まで来ました。アブラハムは、全焼のいけにえを献げる場所の近くに従者たちを残します。アブラハムは息子イサクといけにえを献げる場所に上っていきます。これまで、犠牲を献げる場合には、いつでもアブラハムは一頭の子羊を連れて行きました。しかし、この時祭壇に献げられる自分の運命を全く知らないイサクが、いつもならいるはずの動物がいないことを知って、「わたしのお父さん、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」と、アブラハムの胸を射抜くような質問をします。この言葉にも、アブラハムは自分の心の秘密を表しません。

ただ確信を持って、8節「神が備えてくださる」と。

 誰にでも、大切にしている宝があります。それを失いはしないかと、ほんのちょっと考えるだけで私たちは震えおののいてしまいます。私たちは、愛する者の容体が悪くなったり、ゆるやかであるけれども次第に悪化していく様を見るだけで、心が裂かれる思いになります。 私たちの愛する者は、私たちがどのようにそばに置こうとしても、やがては去っていきます。しかし、アブラハムの場合は、彼自身が打撃を加える側に立たなければならないという苦悩が加わっていました。イサクにとっては、父親の最後の姿は、刀を振り上げている姿になるのです。

アブラハムは告げられた場所で、祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縛り、イサクを祭壇のたきぎの上に置いて、手を伸ばし、刀を取って、自分の子をほふろうとしました。イサクはまったく抵抗をしている様子がありません。私たちはここで、アブラハムの主に対する従順だけではなく、イサクの父に対する信頼を見る思いがします。

 刀が高く振り上げられた時「アブラハムアブラハム。」主の使いの声が遮りました。11節「はい」と答えるアブラハムは、冷静でした。主は、アブラハムの行為とその心をみておられた。主は彼が、イサクを献げたと認められるまで、黙しておられた。アブラハムの献身を確認した時、ついに御声をかけられたのです。「その子に手を下すな。」

アブラハムが目をこらして見ると、一匹の雄羊がやぶに角をとらえられていました。アブラハムはその雄羊をとらえて、息子の代わりに焼き尽くすいけにえとして主に献げることができたのです。アブラハムは、ここで感謝の気持ちと、心からの献身の思いを表しました。

その場所は「ヤーウェ・イルエ」、「主の山に、備えあり」と名付けられました。

私たちが最上のものを神に献げ、私たちの賜物を火に通し、それらのものを御心の前に明け渡すなら、神は精錬された金のようにして返してくださるのです。

私たちが犠牲を献げる山に来るまでは、神からの助けは来ません。私たちが、これ以上の窮地はないというところまで追いつめられないと、神の道が備えられないことがあります。私たちのイサク、それは何でしょうか?その私たちのイサクが祭壇に乗せられ、刀を振り下ろそうとするときに、主の使いが来て救いの道を開くのです。神様は時に私たちには不可能なことを命じられますが、不可能に思える神のみ言葉に従う時、問題は解決されます。

最後にここから、クリスマスのメッセージを語りたいと思います。

 

3,神がささげた独り子

アブラハムが献げた独り子は殺されませんでした。天の使いのストップがかかり、神様はちゃんと身代わりの雄羊を備えてくださったのです。

しかし、神の独り子は、私たちの罪のために死ぬために生まれてくださいました。イサクが、祭壇の上に従順に従ったように、主イエスは死に至るまで従順であられました。

 イサクは、父親が自分のそばにいることをはっきりとわかっていました。そして死を免れました。しかし、キリストは十字架上で父なる神の愛を意識できず、御父に捨てられました。アブラハムは独り子を殺さずに済みました。しかし、私たちの天の父なる神は、独り子イエス・キリストを十字架につけて、死に追いやりました。

 このクリスマスは、父なる神が私たちに御子イエス・キリストをくださった喜ばしい時です。しかし、それは、神の大きな苦悩と犠牲の上にある喜びでもあることを覚えたいと思います。

ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」