2020年6月21日の説教要約 「あなたを祝福の源とする」

2020年6月21日の説教要約

                  「あなたを祝福の源とする」 中道由子牧師  

≪「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」≫                      

                              (創世記12章1~4節)

 

今日は父の日です。信仰の父と言われるアブラハム(ここではアブラム)の箇所からお話します。

 

 1、神の選び

ノアのセム、ハム、ヤフェトの中で、神様はセムの子孫を選ばれました。セムの子孫のうちアルパクシャド(11章10節)に焦点が当てられています。アルパクシャド以来、寿命が確実に短くなりました。ところがナホルとその子テラに特別な点がありました。ナホルは148歳で早く死に、テラは70歳という高齢で長男をもうけたのです。神がイスラエルの父祖アブラムから、人類を救う偉大なご計画を始められたのです。

 テラは高齢で息子を3人(アブラム、ナホル、ハラン)を生みました。ハランは結婚して子を産んだあと、早死しました。アブラムには結婚しても子どもがいませんでした。テラはどんな理由か、故郷ウルを離れてカナンの地に移住することに決めます。しかしその途中ハランに留まり、そこで余生を終えます。テラは自分の思い通りに生きられなかったのです。アブラムの兄弟ナホルは8人の息子を生み、そばめによって生まれた息子もいました(22章21~24節)。ところが、神はむしろ、生んだり増えたりしにくい不妊の夫婦を選ばれます。

 主はなぜセムの子孫の中でアブラムを選ばれたのか。主は彼をどのような中から召し出されたのか。何か彼に優れたところがあったからか。そうではない。主は、ただ御自身の恵みのゆえにアブラムを選び、彼を通して御自身の計画を実現されたのです。

 「生めよ。増えよ」(1章28節)と神が言われたことから考えれば、アブラム夫婦にとって子どもがいないということは大きな心の痛みでありました。しかし、このような痛みがあることは、かえって主の祝福となったのである。何の問題もない家族はないが、全てが順調にいっている家族以上に、問題があるからこそ神に必死にすがって求めていく。神はそのような夫婦を選ばれたのです。アブラム夫婦はこの問題ゆえに自分の弱さと直面せざるをえなかった。神を求める以外になかったのです。

 アブラム夫妻にとってこのウルという場所は安定した場所であったでしょう。

ハム族のただ中に、セムの子孫である一家族が生活してきたのです。テラを家長とするこの一族は、ウルの郊外にある豊かな牧草地に定住しました。彼らは羊飼いの民族で、天幕の村や掘っ建て小屋のような部落に住んでいました。城壁のある町や文明社会の芸術品、商人の交易などにはあまり関心を示しませんでした。

 けれども悲しいことに、道徳的には、ハム族の忌まわしい偶像崇拝に満ちた習慣と接しているうちに、最初の頃の純真な信仰が汚れてきたのです。

ヨシュア記24章2節で、後にヨシュアは、「あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。」と語っています。

ここから彼らが偶像礼拝者になったことがわかります。事実、カルデヤ人のウルは月神礼拝の中心地であったようです。そこにはジッグラトというその礼拝の場所があったと言われています。それ故テラは、ウルからハランに移ったとも考えられます。そのような背景の中で、アブラハムは生まれ、成人していきました。

しかし、11章の終わりに父テラがハランで生涯を終えると、アブラムにとって転機がやって来ました。12章1節「主はアブラムに言われた。『あなたの生まれ故郷、父の家を離れて私が示す地に行きなさい。』」神の召しは、多くの場合、大切なものを放棄し、断念しなければなりません。ある土地に住み着くということは、土地を所有すると同時に、彼らは多くの財産を持つようになりました。様々な地位や権利も所有するようになりました。それ故に、その地を離れるということは、これらのものの大部分を失うことを意味しています。

しかし、アブラムがハランに留まっている限り、不妊の問題を解決することはできません。生まれ故郷、父の家のように安全な環境から離れることは危険ですが、新しい希望を抱くことでもあります。

イザヤ書51章1、2節にはこのように書かれています。

「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ。あなたたちの父アブラハム、あなたたちを生んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした。」

皆さんはいかがでしょうか?どのようなところから主の救いに預かったか、覚えておられると思います。 アブラム夫婦はこのような不確実に見える未来に向かって、信仰をもって一歩足を踏み出しました。

 

 2、約束された祝福

2節、3節にある、約束には2つの約束、祝福があります。

子孫についての約束と土地についての約束です。

 F・B・マイヤーは彼の著書『信仰の高嶺をめざして』の中で、「約束は、実際的であり、積極的であり、文字通りのものである。貝殻の中に肉が入っているように、神の命令の中には約束が隠されている。」と言っています。

もし「主イエス・キリストを信じなさい」というのが命令であれば、「そうしたら・・・あなたは救われる」というのが、約束です。「あなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」というのが、命令であれば、「そうすれば、天に宝を持つようになろう」というのが約束です。「父や母、家や土地を捨てなさい」というのが命令であれば、「この地上で百倍を受け、のちの世では永遠の命を受ける」というのが約束です。アブラムの場合も同じです。

彼に与えられた約束は、まず子孫についてでした。あなたには子供がいないが、私はあなたから大いなる民を起こす。あなたは一番末の息子であるとしても、私はあなたを祝福し、あなたの名前を偉大なものとする。あなたはあなた自身の家族から切り離されるとしても、あなたによって、地上のあらゆる家族が祝福されるようになる。これがアブラムへの約束であり、神はこの約束をイスラエルの民への契約として更に大きな祝福を用意されるのです。

私たちにとって、出て行けとの召しに含まれている困難は、あまりにも大きすぎて、絶えられないと思われるかもしれない。しかし、その召命についている約束をかみしめるとどうでしょう?「揺るがない土台の上に建てられた都」がぼんやりと見えてくるにつれて、今まで満足して年月を過ごしてきたウルは小さくなっていき、そしてあなたは立ち上がって出かけて行きます。

だから、犠牲に思いを注ぐのではなく、恵みある約束に思いを向けていきましょう。

アブラムが受けたもう一つの約束は、土地の約束でした。

7節「主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。』」

アブラムの子孫はどこにいますか?この時まだ生まれていません。にもかかわらず、ここで神はアブラムに、カナンの地を与えると約束されます。このカナンという地を実際的に受け取る者はアブラムではなくて、彼の子孫なのです。まだ、何の形もない、保証もない。約束された地は、誰も住んでいない地、何の戦いもなくして取得できる地ではありませんでした。偶像礼拝者たちが、住み着き、文明と国家を築いていた地でした。アブラムは、祭壇を築いて神の御名によって感謝して、祈りました。

こうしてアブラムは、イスラエルの父としての祝福を神からいただくのです。

 3節「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。」

アブラムが神の祝福を取り次ぐ器であることを認めて彼に接する人は、主によってアブラムと同じ祝福に預かる。しかし、アブラムを神の器と認めない者は、その祝福を受けられないだけでなく、呪いを受けるということであります。

この祝福を私たちもいただけます。