2020年8月16日の説教要約 「神のビジョン」

2020年8月16日の説教要約

           「神のビジョン」   中道由子牧師

 

≪主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」≫

                     (創世記15章1~11節)

 

1、神の約束は変わらない

アブラムは、主の恵みによって多くのしもべや財産が与えられていました。

しかし、増えれば増えるほど、それを受け継ぐ自分の子供が今だに与えられていないということが、彼に恐れや不安を与えることになったと思われます。

 神を待ち望むことは簡単なことではありません。神は長い時代を通して、ご自分の道を発展させます。しかし私たちは、ごく短い時間のうちに疲れてしまいます。 恐れと不安の中にあったアブラムに、主は1節「恐れるな」と御声をかけてくださった。そしてこの主の御言葉は、命令なのです。

今、コロナウィルスが広がって、どこに行っても、どこで感染するかわからない、不安を抱えている私たちに、神様は同じ言葉をかけておられる、「恐れるな」と語っておられます。

主は恐れなくてもよい理由を語られる、「わたしはあなたの盾である。」と。「盾」とは戦いにおける「守り」のことです。アブラムの知恵と力が彼の盾なのではない。主ご自身が盾となって彼を守ってくださるのです。だから、決して恐れる必要はないのです。

また主は大いなる報いを約束されました。「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

そう言われても、現実には自分に子がいないのですから、彼は「わが主よ。私に何をくださるというのですか。」と言わざるを得なかった。どんなに財産が増し加わっても、それを継ぐ子供がいなければ、報いの大きさは感じられません。彼にとって現実的に跡取りを得る道は、何だったでしょう?

2節「家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」当時の慣習に従って自分の家の奴隷を相続人とすることでした。主は、アブラムが家の奴隷を跡取りにしようとしているのを禁止されました。

それは、一番手っ取り早い解決策のように見えましたが、主はあくまでも主の約束を信じる信仰の道を求められた。あなた自身から生まれる者が跡を継ぐことになっていると確認されます。

アブラムは自分の中に閉じこもっていて、主の御業を信じることが出来なかった。天幕の中で閉じこもって年老いた自分を見て、サライを見て、そこに子供がいないという現実を見ていました。

主は、ビジュアルを通してアブラムを教えます。天を仰いで、星を見せるのです。「あなたの子孫はこのようになる」と。外に連れ出され、神の創造の御業を見せられ、もう一度主の言葉を聞かされて、アブラムの思いは自分自身から離れて主ご自身に向けられていきました。アブラムは、ここで信じます。そして、神様から義と認められる。これはすごいことです。義と認められるとは、全きもの、罪のない者と認められることですが、神様は、アブラムゆえに彼を義とされたのではありませんでした。 

 アブラムは、「この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」と、主にその確証、しるしを求めたのです。空の星に続いて、第二のビジュアルが必要です。

主はアブラムに、雌牛と雌山羊と雄羊と山鳩と鳩のひなを持って来させ、鳥以外を二つに切り裂いて、半分を互いに向い合せたのです。17節「日が沈み、暗闇に襲われたころ、突然、煙を吐く炉と燃えるたいまつが二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」

ここを通ったのはアブラムではなく、神様だったのです。神様ご自身が人の罪のために裂かれる、ということを意味しています。イエス様の十字架を通して神様自らが犠牲となり、契約を一方的に果たしてくださるのです。この後、16章で、アブラムは罪を犯してしまいます。

人間は本当にいい加減ですが、神は契約を果たしてくださいます。

 

 

2、思ってもみなかった関係

16章に入ります。16章1節「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。」

主の契約が結ばれたにもかかわらず、すぐには子供は生まれませんでした。約束はすぐには実現しなかったのです。「待つ」ということは、信仰の試練です。

サライには、ハガルと言うエジプト人の女奴隷がいました。自分よりも若く、体が丈夫な女奴隷ハガルなら、間違いなくアブラムの子を産むことができると考えました。神様はサライに子供を産む約束をくださいましたが、サライは信じませんでした。アブラムに対する約束だが、それはサライの子ではないのだと考えたのです。それで、サライは、別の道、つまり、自分の女奴隷ハガルを夫アブラムに与え、彼女によってサライが子供の母になることが主のご計画なのだと考えてしまったのです。当時はこのような考え方が一般的に罪だと考えられていなかったのです。ですから、アブラムはサライの言うことを聞き入れました。他の人がこのような申し込みをもってアブラムに近づいてきたら、否定したでしょう。そのような考えは、忠実な妻に重大な悪を及ぼすので、アブラム自身からこのようなことは言いだせなかったのでしょう。ところが今はこの考えが妻から出たので、心配はないように思われました。アブラムは、神に相談しないで、この申し込みに賛成したのです。主は「あなた自身から生まれ出てくる者が」と言われたのであって、サライから生まれる子でなくてもアブラムの子であれば主の御言葉に反することにならないのではないか、と考えたかもしれません。サライは夫に与えられたさまざまの特権を自分のものにしていなかったのです。アブラハムは厳格な一夫一婦の考えを持っていた方だったのに、残念です。 それはサライにとっては犠牲の行為でありました。彼女は喜んで、夫人としての最大の特権を放棄し、他の者を自分の座に迎え入れ、自分の立場を明け渡そうとしたのです。

私たちはクリスチャンとして、神の言葉を無視して行動することはできません。そんなことをすれば神の祝福を受けられないことも良く知っているからです。しかし現実を見ると、神の御言葉がそのままの形で実現するとは考えられない。そこで神の御言葉と現実とを何とか結び付けようとして、知恵を使います。神の目的を果たすには神の方法と手段によらなければなりません。

アブラムと妻サライは、神様が働いてくださることを待ち続けましたが、問題が解決しないため、自分たちで何とかしようとしたのです。女奴隷ハガルによって問題を解決しようとしました。サライはアブラムに「どうぞ私の女奴隷の所にお入りください。たぶん彼女によって私は子供の母になれるでしょう」と話しました。アブラムは、サラの提案に同意し、その結果、ハガルは妊娠しました、ハガルは妊娠するとすぐ、サライを見下すようになりました。自分の女主人が手にできないものを、自分が手にしたからです。「あなたにはないものを私は持っているのよ」という態度でした。今まで女奴隷としてサライに従ってきたハガルは、妊娠して自分が女性として彼女より優れていると勘違いして、態度が変わってしまったのです。相手の地位や財産によって態度が変化するのが世の常です。自分の状況の変化や他人との比較によって自分の評価が変わるのでなく、いつも「神のしもべ」としての姿勢を崩さないものでありたいと思います。

サライはこのようなハガルの態度に耐えられなかった。ハガルの行動に怒りを覚えたサライはアブラムに言います、「わたしが不当な目に遭(あ)ったのはあなたのせいです」。アブラムも過ちを犯しましたが、それはサライの過ちでした。それで、アブラムはサライに「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」と言いました。サライの抗議に対して、アブラムは責任を持ってこの問題を解決しようとはせず、サライの好きなようにさせました。女奴隷のハガルに何か言う権利があったでしょうか?彼女の意志を聞くこともなく、彼女はアブラムとサライによって利用されたのです。ハガルには、彼女の身分にふさわしい人の忠実な妻となり、きっと幸福な家庭の母親となっていたことでしょう。それが、身分不相応な立場に引き上げられ、アブラムの子の母親となることになったのです。

今までうまく行っていた関係にひびが入りました。

そしてサライは、ハガルをいじめたので、ハガルは女主人のもとから逃げ去ったのです。死を覚悟して砂漠に逃げたのですから、ひどい虐待であったのでしょう。虐待の原因である子をおなかに宿し、ただ問題を抱えたままで逃げたのです。ですから結局、ハガルはすべての問題から逃れることができませんでした。主の使いが荒野の泉のほとりでハガルに会い、「ハガルよ」と名前を呼ばれました。問題を解決する神は、ハガルに会ってくださったように、私たちの人生の中でも会って下さり、私たちの名前を呼んでくださいます。そして私たちに必要なものをくださいます。砂漠でハガルに会った時、神様はハガルに水を下さいました。神様はハガルのような私たちに必要なものを満たしてくださいます。

そして「女主人の元に帰り、従順に仕えなさい。」と逃げていたハガルの人生に直面させ、コンフロントさせるのです。ハガルは覚悟して帰ってゆきます。でも彼女はもうひとりではありません。神が彼女と共に歩んで下さり、責任を取ってくださいました。息子イシマエルが生まれ、サライに約束の子イサクが生まれ、アブラムのもとを出されるその日まで、彼女は逃げませんでした。

そして神は16章10節「あなたの子孫を多くふやす。」16章11節「主があなたの悩みをお聞きになられたからです。」とイシマエルの将来を保証してくださったのです。アブラムとサライが焦って決断した犠牲になった、ハガルの人生も主は責任をもって導いてくださいます。

16章16節「ハガルがイシマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。」とあり、次に神がアブラハムにお声をかけられるのは、

17章1節「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。」

 つまり、13年間沈黙の時がありました。

 人が神との契約を忘れた頃、不意に神は現れなさる、人の時とは違う、神の時があります。

遅いと不安になりますが、神の時が最も確かなのです。人がすべきことは待つことです。

神を信頼し、神がなされるまで静かに待つことです。