2019年9月15日の説教要約  「どんな時でもやっていける」

2019年9月15日の説教要約

                   「どんな時でもやっていける」  中道由子牧師 

≪わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です。≫          (フィリピの信徒への手紙4章10~20節)

 

1、満ち足りている生活

パウロがフィリピで初めて伝道した後、彼はテサロニケに移っています。

 第二テサロニケの信徒への手紙3章6~12節でパウロはテサロニケにいた時は、働いて生計を立てていたことがわかります。フィリピの信徒たちはこの時パウロに贈り物をしてパウロを助けました。

フィリピの信徒への手紙4章16~18節にそれが書かれています。

パウロは信徒たちからの支援に頼っているわけではありません。「あなたがたの益となる豊かな実」とは、その見返りはあなた方に返ってくる神の恵みなのだと言っています。

コリントの信徒への手紙二8章2~5節に書かれています。

 コリント信徒への手紙の中に書かれているマケドニアの人々とは、フィリピの教会の人たちのことです。彼らは有り余る中からではなく、貧しい中から献げたからです。パウロは貧しい生き方を知っており、その中で人々の助けも愛も受けたのです。

 パウロは、今は牢獄の中で貧しい状態におりますが、生まれはユダヤの名門の出でありました。パウロは富の中に生きていました。しかし富んでいる者が歩む生き方の難しさも知っていました。人は貧しいと人をうらやんだり気持ちがいじましくなったりするものです。しかし、富むとどうでしょう?富んでいて謙遜であることはもっと難しいことです。パウロはそのどちらも知っていて、なおかつその境遇に支配されませんでした。

 真に富んでいる人とは、貧しい中でも満ち足りている人です。今ある物で満足できる人であり、また、富んでいる人とは、お金や物質を所有する人ではなく、それを心ゆくまで用いて生きる人です。

4章11節(リビンバイブル)「私は物が豊富であろうとなかろうと楽しく生きるすべを学びました。」とあります。

満ち足りているとは、どんな中でも楽しく生きられることです。今は物が豊富な時代です。

でも人々はもっといろんなものをほしがり、にもかかわらず物がない時代よりも楽しく生きているようには感じられません。それは物を持つことばかりを求め、きちんと用いる方法を知らないからです。

エス様はマルコ12章44節に出てくる、レプタ2枚を献げた女を高く評価なさいました。それは彼女が自分が持っている物の使い方を知っていたからです。パウロは持っている物が少なくても全宇宙を所有し、不足の物がない、真の富む者として生きました。

「満足する」とはギリシャ語で「アウタルキィ」と言います。本当の「アウタルキィ」「満ち足りる」ことがわかるのはイエス・キリストの恵みを知っているからです。

 

コリント信徒への手紙二8章9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」

 

 2.状況を克服する

  旧約聖書にハガルという女の人がいました(創世記16章)。彼女はアブラハムの妻サラの女奴隷でした。神様はサラに子供を産む約束を下さいました。サラは信じませんでした。アブラハムと妻サラはこの問題を自分たちで解決しようとしました。神様が働いてくださることを待ち続けましたが、問題が解決しないため、自分たちで何とかしようとしたのです。女奴隷ハガルによって問題を解決しようとしました。サラはアブラハムに「どうぞ私の女奴隷の所にお入りください。たぶん彼女によって私は子供の母になれるでしょう」と話しました。アブラハムは、サラの提案に同意し、その結果、ハガルは妊娠しました。ハガルは妊娠するとすぐ、サラを見下すようになりました。自分の女主人が手にできないものを、自分が手にしたからです。ハガルの行動に怒りを覚えたサラはアブラハムに言います。「私に対するこの横柄さはあなたのせいです。」アブラハムはサラに「あなたの女奴隷はあなたの手にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい」と言いました。

女奴隷のハガルに何か言う権利があったでしょうか?彼女の意志を聞くこともなく、彼女はアブラハムとサラによって利用されたのです。そこに今までうまく行っていた関係にひびが入りました。そしてサラは、ハガルをいじめたので、ハガルは女主人のもとから逃げ去ったのです。死を覚悟して砂漠に逃げたのですから、ひどい虐待であったのでしょう。おなかに子を宿し、問題を抱えたままで逃げたのです。ですがハガルは問題から逃れることができませんでした。主の使いが荒野の泉のほとりでハガルに会い、「ハガルよ」と名前を呼ばれました。問題を解決する神は、ハガルに会ってくださったように、私たちの人生の中でも出会って下さり、私たちの名前を呼んでくださいます。そして私たちに必要なものをくださいます。砂漠でハガルに会った時、神様はハガルに水を下さいました。神様はハガルのような私たちに必要なものを満たしてくださいます。そして、ハガルは覚悟して帰ってゆきます。でも彼女はもうひとりではありません。神が彼女と共に歩んで下さり、責任を取ってくださいました。息子イシマエルが生まれました。アブラハムのもとを出されるその日まで、彼女は逃げませんでした。神は「あなたの子孫を多くしましょう」「主はあなたの苦しみを聞かれたからです」とイシマエルの将来を保証してくださったのです。

 私たちは祈る時に状況が変わることを願います。このひどい環境、耐え難い人間関係を変えてほしいと願います。しかし神は、状況を変えることには関心がありません。神は私たちを変えること関心を持っておられるのです。

 

3.私を強めてくださる方のお陰で

有名なみ言葉です。前後関係なしで読むと、今までできなかったことが、急にできるようになる、と思いますが、そういうことではありません。リビングバイブルでは、「力を与え、強めてくださるキリスト様に助けられて、私は神さまの要求をなんでも成し遂げることができるからです」英語訳で‘Christ gives me the strength to face everything’となっています。どんな状況でも神様はあなたに任されたことはできる力を与えて下さいます。ですから私たちは「どんな時にもやってゆくことができるのです。」

普通力と言う言葉があります。いつもの力が出るというのは当たり前のことではないでしょう。例えば、本番に弱いことがある。何かがあった時、いつもの力をなかなか発揮できない、ということはないでしょうか?でも神様は「あなたに任されたことは、やり遂げる力を与えるよ」と言ってくださるのです。

ある牧師の言葉に「祈る人に神の働きを任せなければなりません」があります。優れた人にではなく、神を恐れかしこむ人に働きを任せなければなりません。

頭が良い人でも、祈らないならば、その人に神の働きを任せることはできません。優れているけれども祈らない人は多くの場合、はじめはうまく働きをやっているように見えても、結果的にはその働きを歪めてしまうからです。神の働きは祈る人、敬虔な人を通してだけ実を結ぶことができるのです。

「あなたに任されたことは、やり遂げる力を神様は必ず与えて下さいます!」