2019年9月22日の説教要約  「わたしにあるもの」

2019年9月22日の説教要約

              「わたしにあるもの」  秦野教会 照内幸代牧師

 

<ペテロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものを上げよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』>

                                                                (使途言行録 3章6節)

 

≪卒業旅行でカンボジアアンコールワットを旅したことがあります。遺跡はすばらしかったのですが、それ以上に私の心を捉えて離さない出来事がありました。アンコールワットのそばを歩いていたとき、3才くらいの女の子が、手に小さなお土産用のマグネットやキーホルダーを握りしめて、舌っ足らずに「ワンダラー、ワンダラー」(1ドル)と差し出してくるのです。その子は病気のようでした。近くに誰もいないのかと思うと、離れた木陰に、母親らしき人が座っている。母親は何もせずにその子が働いている様子を見ているのです。私はその女の子が差し出してくる、ワンダラーの品物を買いませんでした。買ったとして、一体何があるのでしょう。彼女が働いて得たワンダラーは、木陰にいる母親のものになる。そしてそれが使い果たされたら、後には何も残らない。1ドルは百円ちょっとですから、あげることはできます。しかしそのワンダラーは、彼女の人生全体を救う力がないのです。≫

 

本日の聖書箇所は、私にこのカンボジアを思い起こさせます。このヘロデが建てたという荘厳な神殿の片隅に、物乞いの男性がいるのです。彼は「美しい門」というところに座り、物乞いをしていました。この「美しい門」というのは、その名の通り優美なつくりをしていて、コリント式支柱という、特に頭の部分の装飾が素晴らしい造りをした門になっていました。人々は、「まぁなんて美しい門でしょう」と上を見上げながら通り過ぎていく。その足元に、この物乞いは座っていたのです。毎日神殿には来ているのに、一片たりとも中に入って礼拝をしたことがないのです。ただ聞こえてくる礼拝の音に耳を澄ませながら、ああ、今日もこれで生きていけると、その心配ばかりしているのです。私がアンコールワットで出会った子供も、きっと中に入ったことがないでしょう。こんなに側に、何回も来ているのに。ああ外国人はいないかしら。私を憐れんでくれる人はいないかしらとそればかり気にして、何とかその日を生き延びているのです。もはや、お金は、人を救うことができない。その人の命を、今日一日引き延ばすだけで、この足の不自由な男の、このカンボジアの子どもの人生全体が、救われる術を私たちは持っていないのです。

この男の傍を、ペトロとヨハネが通りかかりました。ペトロはヨハネと一緒になって、この男をじっと見つめました。そして男に、「わたしたちを見なさい」と言いました。そんなことを言うくらいだから、自分に関心を払ってくれている、つまり、お金をくれるだろうというのが物乞いにとって自然な考えだと思います。この時ペトロとヨハネとが、この男をじっと見ていたのは何故か。ヒントになるのは、使徒言行録の14章の記事です。この時癒しを行ったのはペトロではなくパウロですが、ここにも足の不自由な男が座っていて、パウロの話に耳を傾けていました。パウロも「彼を見つめ」たと書かれています。見つめていたのは何故か、「いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」たからだとあります。ペトロとヨハネが彼をじっと見たのも、彼の内にある信仰に、神の力が働くかどうかを見ていたのでしょう。この男は、何も自分が癒されて、立てるようになるとは思っていなかったでしょう。ペトロとヨハネを見返したのも、お金がもらえるからだと思ったのです。しかし彼の内には、神を畏れる信仰があったのです。一度も神殿の中に入ったことがない。ただ、人々が中へと入って行って、礼拝を捧げている様子に、耳を傾け続けただけです。しかしこの男の内には、神の力が働く信仰があったのです。聖書の話をきいたことがない。礼拝をきちんとみんなと一緒にささげられたわけでもない。しかしこの男は、神を信頼するものの一人であり、いつか自分の脚が治って、歩けるようになったなら(それは夢見物語ですが)中で礼拝をささげたいという求めがあったのです。ペトロとヨハネは、この男に、一番必要な物を渡す決断をします。それはお金ではありません。それ以上に、この男にとって必要なもの、主イエス・キリストの御名を手渡したのです。

主イエス様はおっしゃいました。「誰でも私の名に寄らないでは、父の身元に行くことはできない」。お金があっても、家があっても、食べる物があっても、イエス様の御名がなければ、それはやがて失われてしまうものであるのです。この男は、主イエス・キリストの御名によって歩くことが許されました。これは、単に彼の足が身体的にも癒されて、歩くことができるようになった以上のことでした。彼はそのまま神を褒め称えて、神殿の中に入って行き、ペトロとヨハネと一緒になって、神を礼拝しに行ったのです。何十年と、一歩先には神殿があるのに、中に入ることができませんでした。ただ中の様子に耳を澄ませて、その日生きて行くお金をいただくだけでした。その彼が、神殿の中についに入ったのです。そして、永遠のいのちを得たのです。もう誰からも奪い去られることのない平安と、永遠のいのちが手渡されたのです。

私たちクリスチャンには、お金がなくとも、いや仮にお金があったとしても、この人を本当の意味で救うことのできるものが与えられているのです。それが、主イエス様の御名です。わたしたちは、誰でも、富める者も貧しい者も、若い者も年寄りの者も、この主イエス様の御名を手渡すことができるのです。日本の教会は人口わずか1%で、どこの教会も金銀があるわけではありません。しかしともすると逆に、「金銀もない、イエス・キリストの御名もない」と言うことに陥らないだろうかと思うことがあります。私たちは胸を張って、「持っているものがある!」と言っていいことがあるのです。それは、イエス・キリストの御名です。私たちは、自信をもって、「イエス・キリストの御名がある!」と言えるのです。その御名を必要としている人には、手渡すことができるのです。今も生きて働いていらっしゃるキリストが、その名を通して働いて下さるという確信をいだいて、私たちはその御名を必要とするあの人のために祈り、この福音を手渡して行こうではありませんか。≫ 

                      (使徒言行録 3章 1~ 10節)