2023年6月18日の説教要約 「私にあるものをあげよう」

2023年6月18日の説教要約

         「私にあるものをあげよう」    中道由子牧師

 

《ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 》

使徒言行録3章1~10節)

 

1、愛をもって近づく

  この奇跡は、ペトロとヨハネが祈りのために宮に上った時に起きました。

そこで生まれつき足のきかない男と出会います。祈りのために宮に来る人たちからの施しを求めて、毎日「美しの門」という名の宮の門に運んできてもらっていた男がいました。ユダヤ教では、人に施しをすることは最大の得目の一つとされていました。

人々はハンディがある人に小銭を投げることで、神から報いが得られるのではないかと思っていました。そういうことをよく知っていたこの男は、参拝者が最も多く訪れるであろうこの午後3時に、最も人通りの多いこの「美しの門」の所で施しを求めていたのです。

 ちょうどその時、ペテロとヨハネが宮に入ろうと彼の前を通り過ぎようとしました。そこでこの男は、いつもほかの人たちにしているように何のためらいもなく、彼らに施しを求めました。

この男の人生を考えてみると、「生まれながら足が不自由だった」というのですから、生まれてこのかた一度も立って歩いたことがない、ということです。

ずっと座って立って歩いて行く人を下から見て、物乞いをする人生でした。

足が不自由と言うのは、自分の意志で自分が行きたいと思うところにいけないということでしょう。

旧約聖書のサムエル下4章4節にもう一人足が萎えた人が出てきます。

サウルの子ヨナタンの息子、メフィボシェトです。

このメフィボシェトにシムイという僕がいました。

ダビデが王となり、息子のアブシャロムの反乱で都落ちをすることになった時、このシムイは主人のメフィボシェトを出し抜いて、危機に陥っているダビデに会いに行き、自分の主人であるメフィボシェトはこの機に王権がもう一度、自分に戻ってくると言っている、と嘘をつくのです。メフィボシェトは危機に陥っているダビデに会いに行って自分の忠誠を伝えたかった。でものシムイが意地悪をして、ろばに鞍を置いてくれなかったのです。

自分が行きたい時、行きたい所に自由に行けないことはどんなにはがゆいか、悔しい思いをしたかと思います。

この神殿の外で物乞いをしていた足の不自由な男もまた、人に連れて来てもらわないと神殿の門のその場所にすら自分の意志では行けなかったのでした。

ペテロとヨハネは彼らの方からこの男に近づき、その男をじっと見つめ、「私たちを見なさい」と言ったのです。多くの人は彼を無視して立ち去ったでしょう。

しかし、彼らは「美しの門」に座りながら来る日も来る日も物乞いをしなければ生きていくことができないこの男に深い憐れみと共に、彼の人生を変えるお方を紹介したのです。

皆さんが出会ういろんな状況の中で、助けが必要な人がいると思います。

その人に物質的な助けをしたらよい、というだけでもないでしょう。

ここでペトロが言ったことはただこの男にお金をあげることではありませんでした。

彼の人生の根本的な問題に祈りの手を差し伸べたのです。

 

2、金銀は私にはない

皆さんは、「お金は好きですか?」と質問を投げかけられたら、どう答えるでしょう。お金はないよりもあったほうがいい。しかし、お金が私たちを幸せにしてくれるのでしょうか?確かに、宝くじをひいて金持ちになった人が、自分は不幸になるのではないかと恐れたり、誰かに狙われたりするのではないか、と人間不信に陥ったりする話も聞きます。そして、働かないでお金を持ちすぎると、人は怠け者になってしまいます。

ペトロは、ヨハネとともに、その男を見つめると、「私たちを見なさい」と言った、そして「金銀は私にはない」と言っているのです。

お金がないのに「私たちを見なさい」というのは何となくこの男をからかっているようで、ひどい話のように感じます。

しかし、ペテロは決して彼をからかっていたのではありませんでした。彼らには金銀はありませんでしたが、もっと違う何かを持っていたのです。

彼らが持っていたものとは何でしょうか。 

それは金銀以上のものであり、金銀の源でもあるお方の御名なのです。

 

3、イエスの御名によって歩け

ペトロは、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせました。するとどうでしょう。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしたのです。

これを書いているのは、医者であったルカです。

この男はうずくまっていたひざを伸ばして飛び上がったのです。

生まれて一度も立ったことがない人が、はねまわったのですから、医者の目から見ると、たいへんな奇跡でした。

私たちも病気で一、二ヶ月寝ていると、起きたとき、ふらついて歩けないことがあるでしょう。それを思うと、これは紛れもない奇跡的ないやしであったのです。

この御名にはそのような力があり、永遠の命が流れています。

ずっと美しの門の外で座っていた男が、生まれて初めて神を礼拝するために宮の中に入っていきました。人々は神の業を見て、我を忘れるほど驚いた、とあります。

 彼は、金銀以上のイエスの名によって立ち上がり、主を礼拝し、主を賛美する者に変えられたのです。私たちの地上の人生に必要なのは、イエスの御名です。

私たちのすべての必要も、このイエスの御名により奇跡が与えられます。