2020年5月10日 礼拝説教
「私を愛するか?」 中道善次牧師
イントロ:おはようございます。今日は五月第二日曜日で、「母の日」でございます。
お母さん達の祝福を心から祈ります。
今日は復活節第五主日です。今日もイエス様の復活の記事から共に学びたいと思います。
それはヨハネ福音書21章です。大漁の物語の後、イエス様と弟子たちが朝食を取る場面です。その中で、イエス様がペテロに「私を愛するか?」と三度問いかけられた物語であります。
ここから三つのポイントでメッセージを語ります。 ① 「今でも変わらずに愛していますか」、 ② 主から託された使命に忠実に生きる、③ イエスさまだけを見つめて
①「今でも変わらずに愛していますか」
ヨハネ福音書21書の「私を愛するか?」という物語は、多くの説教者が語る箇所であります。
私は、聖書学院1年生の夏、夏期伝道で奉仕をしていた教会で、はじめて礼拝説教を語らせていただきました。19歳の時でした。
その時語った聖書の箇所がヨハネ21章の「私を愛するか?」という物語からでした。
その時、私は、ペテロのイエス様に対する精一杯の気持ちを読み取りました。
19歳の私は次のようなメッセージを語りました。
15節で、私を愛するか?とイエス様が問われた言葉は、アガペーでした。アガペーは与える愛、神の愛です。
それに対してペテロは、フィレオー(あるいはフィリア)という友情を表す言葉で答えました。フィレオーは、ギブ・アンド・テイク、見返りを求める愛ということもできます。
二度目の問いが16節にあります。そこでも、アガペーの問いに対して、フィレオーの答えでした。
17節で、三度目のイエスの問いかけは、フィレオーであります。
19歳の私は、自分のイエスに対する気持ちをそこに読み込んで語りました。
自分がイエスを愛する愛は、とてもアガペーとは言えない。自分のイエス様に対する愛は、人間的な友情のレベルかもしれない。イエスを愛することで与えられる祝福という見返りを期待しているのかもしれない。それでも、今のレベルの自分としては精一杯の気持ちであなたを愛します。
そのような説教を語りました。
それから42年がたちました。年を重ねるにつれて、また何度も聖書を読むことで、聖書の読み方が、メッセージの聞き取り方が、19歳の時とは変わってくるのであります。
今回聞き取ったメッセージは、英語で言うなら、Do you still love me? であります。
あなたは、今でもずっと変わらずに私を愛していますか?
イエス様がペテロに尋ねられた「私を愛しているか?」という質問は、「はい」や「いいえ」のどちらかで答えるだけでなく、そこに語られていない言葉で、行間に含まれているメッセージがあります。
OMSのエミリー宣教師は、アメリカの神学校でそれを深く学んだと言うのです。聖書の中のメッセージで、イエスが語っていない言葉からも、聖書が語っていない言葉からもメッセージを聞き取ることが出来る。示唆に富んだ教えであります。
私は今回、聖書の字句としては語られていない、表現されていない言葉ですが、stillという言葉を聞き取ったのであります。
still(スティル)とは、「今も変わらずに」という意味であります。
アメリカの夫婦は、Do you still love me? I still love you. と言葉を交わして、お互いの愛情を、気持ちを確かめるのですが、それと同じように、この言葉を受け止めました。
「今でも変わらずに」という言葉を、私は読み取ったと言いました。それはまた、書かれている聖書の言葉からも読み取ることが出来ます。それはペテロが答えた「あなたがご存じです」という言葉です。
ヨハ 21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
ヨハ 21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
ヨハ 21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」
これらの言葉の中から、still(スティル)という言葉を聞き取るのです。
ペテロは、このように言っているのです。イエス様、私はあなたを愛してきました。しかし私は、大きな失敗をしました。しかし今でも変わらずにあなたを愛していることをおわかりください。
今回私が、「私を愛するか?」という問いかけから聞き取ったメッセージは、「初めの愛」であります。
初めの愛という言葉は、ヨハネ黙示録2章4節に載っています。
黙 2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
エペソの教会の人々は、イエス様に対する初めの愛から離れてしまったと責められたのです。
イエス様が、「私を愛するか?」と問われる言葉の中から、私たちが聞き取ることが出来るメッセージがあります。それは、今も変わらずに私を愛していますか?初めの愛を持ち続けていますか?
私がアメリカで一緒に働いた牧師で、個人的に尊敬していた方が、牧会から退かれました。直接彼と話したのではないのですが、彼が言うには「自分は初めの愛から離れた」、それが理由だと聞きました。
ショックでしたが、彼からの間接的なメッセージとして受け止めたことは、「初めの愛を大切に」であります。イエス様を信じたころも、そして、今も変わることなく、主を愛し、主に仕えてゆきたいのです。
②主から託される使命に忠実に生きる
私が、日本ホーリネス教団の総務局長をしていたときのことであります。その時の教団委員長が、折に触れて語られたメッセージがあります。
教会は、利益集団ではありません。
そうですね。もちろん、教会に来る人々の数が増えることは素晴らしいことです。また教会の経済が祝福されることも素晴らしいです。しかしもし教会が、利益を得るようなことばかりを求めているとしたら、イエス様を愛しているのか、自分たちの教会が大きくなることを誇りに思っているのかわからなくなります。それを自己実現と言います。
当時の教団委員長の言葉に戻ります。「教会は利益集団ではありません」。そう言った後に続けて語られた言葉は、「教会は使命に生きる集団です」。
私たちが大切にしなければならないのは、主から託された使命に生きることです。主から託された使命に忠実であることです。
ペテロにとって、イエス様から託された使命は「羊を飼う」と言うことでありました。
三度の問いかけで少しずつ表現が異なりますが、イエスがペテロに託された内容は同じです。
ヨハ 21:15 ・・・イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
ヨハ 21:16 ・・・イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
ヨハ 21:17 ・・・イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
イエス様が託してくださる羊の群れを養うこと、それがペテロに託された使命でありました。
そしてペテロは、その使命に忠実であったのです。
やがてペテロは、ローマの教会の牧師になりました。
ペテロがどのように働いていたかは、1ペテロ5章13節に書かれています。
ペテ1 5:13 あなたがたと共に選ばれてバビロンにある教会、ならびに、わたしの子マルコから、あなたがたによろしく。
バビロンとは、暗号のような言葉で、ローマを表します。
ペテロの通訳者は、マルコ福音書を書いたヨハネ・マルコです。わたしの子マルコとは、ペテロの通訳者であり、また、マルコ福音書を書いた人物です。
ペテロは、ローマの教会でメッセージを語り続けました。託された使命に忠実でありました。ローマ教会で語ったメッセージをみんなが読めるようにマルコが福音書にしたと言われています。
ペテロが、かなり歳を取ってから書いたのがペテロ第一の手紙であります。ペテロは、自分がイエス様から託された使命を1ペテロ5章で語っているのです。
これはペテロに託された使命と同じく、牧会をする者たちに対しての言葉であります。
ペテ1 5:2 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。
ペテ1 5:3 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。
ペテ1 5:4 そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。
2節には、利益のためにするのではない。本心からしなさい、とあります。
新共同訳では「献身的にしなさい」、新改訳2017では「心を込めてしなさい」とあります。
ペテロは、忘れなかったのです。イエス様を愛して、託された使命に対してどこまでも忠実にそれをするのだと。心を込めて、献身的にするのです。
ペテロは、自分の仲間や後に続く人々に対しても、託された使命に忠実であってほしいと願ったのです。
ペテロには、羊を飼うという使命が託されました。彼は、同じ使命が託された人々に対して言ったのです。心を込めてそれをしなさいと。
しかしすべての人が羊を飼うという使命が託されているわけではありません。
イエス様は一人一人に対して託したいことがあるのです。
「君にはこれをして欲しいのだ」という使命が、重荷が、それぞれ主から与えられるのです。
そのようにして主から託された使命に対して、私たちは、どこまでも忠実でありたいと思うのです。
③イエスさまだけを見つめて
三番目に学びたい言葉は、今日の聖書朗読の直後の物語からであります。
ヨハ 21:20 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
ヨハ 21:21 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
ヨハ 21:22 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
「あなたは私に従ってきなさい」
これを三番目のメッセージをして受け止めたいと思います。
ペテロは、死をも覚悟してイエス様に従うことを示されました。
ヨハ 21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
ヨハ 21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
ところがその直後に、気になった人物がいたのです。
それは弟子の中で一番若いヨハネです。ペテロ、ヨハネ、ヤコブは、12弟子の中で、特に選ばれた3人の中の一人です。ペテロが裏切ったときのことを、近くで見ていたのもヨハネです。ヨハネは大祭司の知り合いで、ヨハネの招きでペテロは大祭司の中庭に入ることが出来たのです。しかしそこで三度イエスを裏切った。ヨハネは、それも知っているのです。
だからペテロはヨハネが気になったのです。この人は、どのような使命が与えられ、何歳まで生きて、どのような活躍をするのか。それに対してイエス様はおっしゃったのです。それはあなたと関係がありません。あなたは私に従ってきなさい。
私が聖書学院に入ってすぐの頃と記憶しています。
その当時、聖書学院の教頭先生が私にこのように言って下さったのです。
君がこの聖書学院で、色んな人に出会うと思う。それは先輩だけでなく、教授と言われる先生方もそうだし、日曜日に遣わされる教会でも出会う先生がいると思う。
そこで君が色んな事を感じるかもしれない。「色んな事」の内容はおっしゃいませんでしたが、私は理解出来ました。
それは、羨ましいと感じることもあれば、アレでも献身者なのか心の中で裁くことも含まれるのです。
しかし教頭先生が私におっしゃった言葉は、「召して下さったお方だけを見つめなさい」でした。
どの修養生にも同じようにアドヴァイスされたのかもしれません。
でも、私は、それを私に対する特別なアドヴァイスとして感謝して受け止めました。
私たちは人を見ると、「あれでいいの?」と思ったりします。
それが裁きになることもあれば、あの程度でもやってゆけるのだという緩みに繋がってしまいます。
また、すごい人を見ると、とてもかなわないと思ったり、羨ましく感じます。
しかしイエス様がペテロにおっしゃったのです。
他の人のことは、イエス様とその人との関係であるのです。
「あなたは私に従いなさい」
私たちは、召して下さったお方だけを見つめて歩めば良いのです。
お祈りしましょう