2019年10月27日の説教要約   「自発的な愛」

2019年10月27日の説教要約

                                      「自発的な愛」   村岡貞海牧師

 

中心聖句18:11イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

ヨハネ18:1~11>

 

エス様はいつものように、弟子たちと一緒に祈りの場所に行きます。

12弟子たちはイエスの祈りの場所を知っていました。いつも神様に祈る場所であったからです。それは18:1からキドロンの谷、ゲッセマネの園と思われます。いつも祈る祈りの場所です。

しかし、今までと違うことが起こります。そこに近づいてきたのは、18:03「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。」と書いてあります。

一隊の兵卒とは300~600名の兵士だと言われています。ユダヤの祭司長とファリサイ人が、武器を持った兵士たちを連れて、イエスを捕らえようと近づいてきています。

突然のことのように思われますが、イエスはこの時を知っておられました。イエスはだれを捜しているのかと尋ねます。武器を持った兵士とユダヤの人々は「ナザレのイエスを捜している」と話します。イエスは「それはわたしである」と伝えます。メシアの権威を持っている方が、自ら捕まえられています。

しかし、イエスは自ら進んで捕えられますが、愛する弟子たちを守ろうとされました。

8節、9節です。『18:08すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」 18:09それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。』と書いてあります。

エスはご自分の意志で、自ら捕らわれていますが、愛する弟子たちのことを案じています。

この人たちを去らせてもらいたい。それは、御言葉の成就でもありました。「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と書いてあります。

ゲッセマネの園の祈りでは、疲れ果ててイエスの祈っておられる時に、一緒に祈れなかったペテロが突然変異に驚き、剣を抜いてしまいます。

目の前で捕らえられるイエスを、従って愛するイエスが自ら捕らえられて行かれることがその時は理解できなかったと思います。

18:11イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」。この大切な言葉を伝えます。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。

エス様の十字架は「自発的な愛」と見ることができます。

 

1、イエスの権威

4節を見ますと。「自分の身に起ろうとすることをことごとく承知しておられ」と書いてあります。ヨハネによる福音書では、イエスはご自分が十字架で死ぬことを知っておられました。誰を捜しているのかとイエスご自身が質問しています。

洗礼者ヨハネは1:29その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」とイエスを紹介します。

6章51節では わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。

10章11節では わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。

エスはご自分が人々の罪を贖い赦すために、十字架で身代わりとして死ぬことを始めから知っておられました。

エスはこれから起きることを知っていますが、自ら、この道を拒まず、進み出ています。

「わたしである。」とイエスの言葉にユダヤ人は直ぐ、出エジプト3:14節の「私はあってあるもの」を思い出すそうです。

「エゴ エイミ」とは、わたしはメシヤであると神様を現す言葉です。

エスの受難は4つの福音書に書かれていますが、他の福音書がイエスの悩み苦しむことを書いていますが、ヨハネ福音書は自ら、自発的に進んで捕らえられていることを強調しています。それは勝利の十字架と行っても良いと思います。そのイエスの権威ある言葉に人々は驚き、イエスの御力と権威を見て、打ちのめされたのです。

弟子ヨハネはイエスが捕らえられた時も、イエスが十字架の上にいる時も、その場にいて目撃します。イエス自ら受け入れて、進んでいるのです。自分の利益を求めず、神様の御心と隣人を愛します。

「大きな木」の本を紹介します。喜びを持って与える愛が書かれています。

わたしにとってイエスの愛は大きな木のような存在です。いつも傍らにおられて、命を与え、喜びと希望を与える存在です。

エスの自発的な愛は、神様の子としての権威に満ちた、神様の栄光です。

 

2、弟子たちを守られる。

18:08  すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」去らせなさいと。このことを命じておられるのは、御言葉の成就のためです。イエスはまだ十字架を理解し受け入れることが出来ない、弟子たちを守り、最後まで愛して、安全に保護しています。このことからも力と権威を持っておられる方が、自ら受難を受けておられることを知ることができます。

 18:09  それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。』と書いてあります。

3章16節 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

神様の御心と御言葉を、イエスは「あなたが与えて下さった人たち」と受け止めています。

神様から与えられたものがどんなものであれ、大切に考えておられます。人も物も状況さえも大切に思っておられます。

私たちに与えられた、命、才能、自分も家族も、職場も、資格も、神様から与えられたものとして、大切な神様の御言葉として受け止め、守ることは大切だと思いつつ、祈って行きたいものです。

弟子たちはまだ十字架を受け入れず、逃げて去っていきますが、イエスに愛され保護された弟子たちは、主イエスに従って行きます。

主イエスが注いでくださった愛と包み込んで保護してくださったことによって、イエスの愛の中で神様の愛を知り、福音の喜びが心に沸いて来て、イエスに従う者とされました。

弱り苦しむ時に守ってくださるイエスを知りました。

このように、弟子たちを守るイエスを見ても、自発的な愛を持って、自ら受難を受け入れておられます。

 

3、神様に従う。

エスの自発的な愛を理解できなかったペテロは二回も自分の力で妨げています。

16章でも十字架を否定して、18章でも剣を振り回し十字架を拒みます。

疲れ果ててイエスの祈っておられる時に、一緒に祈れなかったペテロが突然変異に驚き、剣を抜いてしまいます。

目の前で捕らえられるイエスを、従って愛するイエスが自ら捕らえられて行かれることがその時は理解できなかったと思います。

 ペテロは人の剣を持っていましたが、後にイエスの自発的な愛を知って、悔い改め聖霊の剣によって活躍する人となります。

へブル4:12「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」イエスの自発的な愛によって、ペテロは自分の心の思いと志を悔い改めてイエスに従う人となります。18:11イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

エスは「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。」と祈られました。イエスは危機と絶望の中でも神様の御心を、人々の救いのために、十字架を負う方です。

ペテロはイエスの自ら神に従う愛によって、心から悔い改め、聖霊の剣である御言葉を伝える人となります。

エス様が私たちに注いでくださった、自発的な愛を感謝して、受け止め、歩んでまいりましょう。