2021年2月28日のオンライン礼拝説教要約
使徒信条 「我らの主イエス・キリストを信じる」 中道善次牧師
「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子キリストです。』と答えた。」
≪マタイによる福音書 16章13~20節≫
デボーション雑誌リビングライフ2月号に「他の教派をどう考えるべきですか」という文書が載っておりました。一部紹介します。
「全ての教会が一つの組織の中で画一化されなければならないわけではありません。私たちは『イエスは・キリスト』と『福音の真理』という一致の中で、多様に表現することが出来ます。私たちは、この原則のもとに、毎週告白する使徒信条の意味を深く考えなければなりません。」
使徒信条は、他の団体や教会を認めるために、なくてはならない。使徒信条は、教団や教派の違いを乗り越える大切な共通点であると書かれており、心から同意しました。
①イエスの名
イエスの名前は、ヘブライ語では、イェホーシュア(その意味は、「主は救い」)であります。
これは、旧約聖書のヨシュアと同じであります。元々ヨシュアは、ホセアという名前でした。ホセアだけですと「救い」という意味ですが、ヨシュアになって、「主は救い」となりました。
イエスの頃、アラム語で発音しており、イェシュアと呼んでおりました。
私たちが「イエス様」とお呼びする。それはユダヤ人が発音するイェシュアの音に近いのです。
マタイ1章21節で、天使はヨセフに、「その子をイエスと名付けなさい。」と命じております。
イエスという名は特別な名前ではなく、当時、普通に子どもに付ける名前でありました。
そしてイエス様、名前の通りの人物になられたのです。「イエスと名付けなさい」の言葉の後に、「この子は自分の民を罪から救うからである」と、天使は続けるのです。
私たちにとって、イエスという名前は、すばらしい、何物にも代えることの出来ないお名前です。
それを三つ取り上げてまいります。
イエスの名前は、私たちに神の子となる力を与える、言葉を換えると、永遠の命を得るのです。
ヨハ 1:12 言は、自分を受けいれた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。
ヨハ 20:31 これらのことを書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって、命を得るためである。
イエスの名前の力の二番目のこととして、イエスの名前には癒やしを与える力があるのです。
使徒 3:16 このイエスの名が、その名を冠した信仰のゆえに、あなたがたの見て知っているこの人を強くしました。その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです。
第三のことは、イエスの名によって祈ることで祈りが答えられるのです。
ヨハ 14:14 私の名によって願うことは何でも、私がかなえてあげよう。
イエスの名は、私たちに救いを与え、癒やしを与え、祈り(願い)に用いる名であります。
②あなたこそキリスト
マタイによる福音書16章にはペトロの信仰告白が書かれています。口語訳聖書では、ペトロの告白を「あなたこそキリスト」と表現しております。しかし新共同訳聖書、そして、協会共同訳聖書では、「あなたはメシア」と表現しております。そしてそれが、ユダヤ人であったペトロが言った言葉そのものであります。
キリストという言葉は、ギリシャ語で、クリストスであります。これはヘブライ語の聖書がギリシャ語に訳された(70人訳)時に使われました。もとの言葉ヘブライ語では、メシアです。
メシアとは、油注がれた者という意味であります。
旧約聖書の中で油注がれてなる努めは、祭司、王、預言者でありました。それぞれがその職務に就くときに、油が注がれるのです。
イエスは一人で、この三つの働き、王、預言者、祭司の働きをなさるお方であります。
ユダヤ人で、イエスを信じる人々のことを、メシアニック・ジュウと呼びます。旧約聖書の神を信じている彼ら(ユダヤ人)にとっての信仰告白は、ペトロがここでした告白と同じです。「イエスはメシア」
イエスは、ペテロの信仰告白を大変喜びました。それで次の段階のことをペトロに伝えました。
それはご自分がエルサレムでユダヤ人指導者たちに殺されることです。
ところがそれを聞いたペトロが、イエスを諫めました。そのようなことがあってはなりません、と。
それに対してイエス様が厳しく叱りつけました。「サタン、引き下がれ」と言われました。
その意味は、「出て行け」ではなく、「私の後ろに回りなさい」という意味であります。
ペトロが、イエス様に指示を与えるように、主の前に立って、あの方向ではありません。この方向でもありません。そのように指図をするのではない。イエスの後ろに回りなさい。
それは、イエスの背中をしっかり見て、後から付いてきなさいという意味であります。
イエスを「キリスト(メシア)」と告白する私たちもまた、イエスの後ろに回って、喜んでその背中を見つめて歩いて行きたいと思います。
③「イエスは主」と告白する
「主」とは、ギリシャ語ではキュリオスと言います。
キュリオス。辞書を調べてみますと、「力と権威を持っているお方」という意味が最初に来ます。
そして、ギリシャ語の辞書を続けてみてゆくと、様々な説明が書かれています。キュリオスとはタイトル(称号)である。所有者である、主人である。偶像の神にも使うようです。そして、王や皇帝にも使います。
小林和夫師のコリント第一の手紙の説教では、12章3節のところで以下のような解説がなされていました。
「キュリオスというのは当時のローマ皇帝にしか使われませんでした『キュリオス・カイザー』というのが、ローマ皇帝を神として礼拝するように命じられて人々が言った言葉です。このようにキュリオス(主)という言葉は、ローマ皇帝カイザル以外には誰にも付けてはいけなかったのです。にもかかわらずクリスチャンたちは、私たちのキュリオスはカイザルではない。イエスだ。そのように告白したのです。」
70人訳聖書は、離散していたユダヤ人のためにヘブライ語の聖書をギリシャ語に訳して書かれた旧約聖書です。70人訳聖書では、旧約聖書の神ヤハウエ(YHWH)をキュリオスと訳したのです。
「イエスは主」と告白した初代教会の人々は、旧約聖書を読んでおりました。この時代まだ新約聖書は完成しておりませんでした。
旧約聖書では「主」という言葉は、いつも神にだけに使われたのです。
初代の信仰者にとって、「主」(キュリオス)は、旧約聖書のヤハウエ(YHWH)のでありました。
もう一つ、旧約の言葉で主を表す言葉に「アドナイ」があります。それは、わが主(支配者、権威者)を表す言葉です。旧約の人々は、ヤハウエとある箇所を、神の名前をみだりに唱えないということで、代わりに「アドナイ」と読んだのです。アドナイもまたキュリオスと訳されたのです。
アドナイである主とは、私の仕えるご主人様、私の支配者です、という意味であります。
主こそ、私の喜びであり、私の仕えるお方であり、私の全ての全てでありますという告白であります。「主よ」。私たちがそのように、イエスを呼ぶとき、私たちの中にある自己中心、神を自分のために利用する心、それらもまた、後ろに退くのであります。
初代教会の賛美、フィリピの信徒への手紙2章6~11節の最後の言葉を、私たちの賛美、そして信仰告白としたいと思います。
フィ 2:11 全ての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるためです。