2021年2月21日の説教要約 「全能の父なる神を信じる」

2021年2月21日のオンライン礼拝説教要約

 

          使徒信条 「全能の父なる神を信じる」  中道善次牧師

 

≪ルカ 1:37 神にできないことは何一つない。≫

≪ローマ 8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。≫

 

 

かつて歌っていた短い歌があります。歌詞だけ紹介します。

♪ 何でも出来る 私の神様 何でも出来る 世界の造り主 神様は 何でも出来る♪

単純な歌詞ですが、この歌には、力があります。それはこの歌が信仰告白に他ならないからです。

使徒信条は、文語体です。唱える形式です。しかし、「私の神様は何でも出来る」と口ずさむ時、歌詞が歌っている自分に返って来るのです。そして確信が深まるのです。

 

①私は奇跡を信じます

「我は全能の父なる神を信じる」とあります。聖書検索で「全能」という言葉を調べてみました。口語訳の聖書検索ですが、65回出て来ました。

その中で有名な言葉を二つ紹介したいのです。

創 17:1 アブラムが九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた。「私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありさない。

ここでの全能の神は、エル・シャッダイというヘブライ語であります。

黙 19:6 また私は、大群衆の声、大水のとどろき、激しい雷のようなものが、こういうのを聞いた。「ハレルヤ 全能者である神、主が王となられた。

ハレルヤ・コーラスのもととなった歌詞の一つです。ハレルヤ・コーラスでは♪全能の主、治めたまわん♪と何度も歌います。

「全能の神」。それは力ある言葉です。それを身近な表現としたのが「何でも出来る神様」であります。

そのことを表現しているのが、ルカ福音書1章37節の「神にできないことは何一つない」です。

これと似た言葉をイエス様もおっしゃっています。

マコ 10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」

私の信じる神様は、何でも出来る。このことを、さらに別の表現で言うなら、私の信じる神様は奇跡を行うことが出来る。私は奇跡を行う神様を信じますという告白であります。

茅ヶ崎教会では、二度目の緊急事態宣言の中、ZOOMをつかって日曜学校を行っています。

先週は、教会学校の教師のお一人がメッセージを語ってくださいました。その方はメッセージで語られたのは、私は神様を信じてきた人生の中で、何度も奇跡を経験してきた。火事で自分が住んでいた家が焼けそうになった時、火の手が家の前でおさまり、守られた。それは子ども時代のことです。そこからはじまって、人生の危機と思えるような時、何度も神様が現れて奇跡を行ってくださった。そのようなメッセージを語られました。

しかし「奇跡」という言葉は、何か不思議なことが起こったと言う狭い意味ではありません。私たちがイエス様を信じて救われるということそのものが奇跡であります。

アメリカの日系人教会で学生牧師をしていたとき、イエス様を信じて救われた人がおられます。

その方は、幼い頃から死ぬことが怖かった。死んだらどうなるのだろう。死んだらどこにゆくのだろう。誰も教えてくれなかった。ずっと悩んできて、大人になっても、死の恐れはなくならなかった。結婚しても、子どもが生まれても、その恐れはなくならなかった。

でもイエス様を信じてから、長年捕らわれてきた死の恐れから解放された。そのように語られたのです。そして、次のようにおっしゃったのです。私は奇跡を信じます。私にとって、何十年も払拭されなかった死の恐れ。誰も取り除いてくれなかった恐れ。イエス様を信じて、私にはその死の恐れがなくなったのです。私にとって、こんなに大きな奇跡はありません。

全能の神様は、私たちの人生に奇跡を行ってくださるのです。私たちの心に触れるような奇跡を行ってくださるのです。長年引きずってきた恐れや心の傷さえも癒やし、解放してくださるのです。

 

②全能の神は祈りを聞かれます

使徒信条は、全能の神が、私たちの父であるというのです。

神様が私たちの父である。そのことを示している言葉がローマ8:15であります。神様を信じて、神様の子どもとされたら、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来る。

「アッバ」、それは赤ちゃんの言葉であります。ユダヤの幼い子どもが最初に親を呼ぶ時の言葉です。

それは、幼い子どもが「信頼を込めて親を呼ぶ」ことであります。助けを求めることであります。

「アッバ、父よ」と呼ぶ。それはただ形式的に「天のお父様」と呼びかけることではありません。

英語の聖書では、「呼ぶ」というところを「cry」(叫ぶ)という言葉が使われていました。

ある先生が、韓国の教会に行かれたときのことをお話しされました。韓国の教会では、祈りが盛んです。朝の祈祷会があり、金曜日の夜には徹夜祈祷会があります。

そして恵みの座という講壇の前の場所があり、そこに出て、神に近づいて祈る時があります。

その先生のすぐ近くで、韓国人の若者が涙を流して、韓国語で「父」を表す言葉、アボジーを、大きな声で叫んでいたのです。

ああ、何か心に重いものがあるのだろう。それをアボジーと叫んで、訴えている。それこそが、「アッバ父よ」と呼ぶことが出来る、神様助けて、お父さん助けて、そのように叫ぶことが出来る祝福であります。

もう一つのこと。神を父と呼ぶことが出来るとは、父なる神に祈ることを意味しております。

私が、尊敬しております説教者は、説教集の中でしばしば、次のように述べています。

「神を信じるとは、祈りを信じることに他ならない。」

私たちが生きておられる神様を信じる。それが何よりはっきり分かることは、祈りが聞かれることです。私の信じる神は、私の祈りを聞いて下さり、私の叫びを受け止めてくださるお方であります。

「私の祈った祈りが聞かれる」という経験をもつことが、私たちの信仰でとても大切であります。

最近のこととして、私たちの教会学校に新しいお子さんが来られました。神様によって導かれてきたとはっきり言えます。このことは、私たちにとって、すばらしい祈りの答えであります。

私たちの祈っている祈りが、いつ、どのようなかたちで聞かれるか分からないのです。自分の予想していない時に、その答えが来ることがあるのです。しかし祈っている者は、これは祈りの答えだと分かるのです。そして神様が、自分たちの祈りに答えてくださったと知ることが出来るのです。

私たちは、私たちの祈りに答えてくださる全能の父なる神様を信じます。

神に信頼して、祈り、一週間を共に歩みたいと思います。