2021年1月31日のオンライン礼拝説教要約
「告白の力」 中道善次牧師
「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表してすくわれるのです。」
≪ローマの信徒への手紙10章:9~10≫
鵠沼教会では、木曜日に祈祷会を行っています。(緊急事態宣言中は休会)
祈祷会では、主の祈り、十戒とメッセージを語ってきました。そして昨年の年末から使徒信条の学びをスタートしました。これら三つは、「三要文」と呼ばれています。
三要文のうち、主の祈りと十戒は聖書の中にあります。しかし、使徒信条は、聖書にそのまま載っているわけではありません。しかし、その大切さは変わりません。私たちはその意味をあまり知らないで、礼拝の中で唱えていることが多いのではないでしょうか。
ある人が、次のように言いました。もう使徒信条は古いから唱えるのを止めましょう。
確かに、古いかもしれません。しかし、使徒信条は大切なので、続けると答えました。
鵠沼教会の礼拝式では、司式者が必ず使徒信条を唱える前に言う言葉があります。
使徒信条は、古い言葉遣いですが歴代のキリスト教会がずっと告白してきた言葉です。
誰かがこの教会にやって来て、みなさんは何を信じておられますか。そのように言われたとき、どのように答えますか?
それをよくまとめており、また、私たちがすぐに口から言えるのが、使徒信条です。
使徒信条を大切だと思った根拠は、学んだ次の言葉です。
使徒信条は、信仰告白の中で一番古い歴史を持っている一つです。これは、おそらくローマの信徒への手紙が送られたローマの教会で生み出されたものと思われます。使徒信条の母体になったのが、古ローマ信条です。
ホーリネス教団の信仰告白は、聖書から終末までの8項目があります。続いて、歴代の聖徒とともに使徒信条を告白するというのです。
カトリック教会やオーソドックス教会(正教会)では、使徒信条に似たニケヤ信条を用います。
いろいろな団体がありますが、みんな使徒信条を大切にしている。それは、私たちが信じている中身は同じだということを表すからです。
少し長いイントロになりましたが、使徒信条の大切さを申し上げました。
①信仰はやって来る
信仰を告白すると言いますが、信仰とは何でしょう?
私の体験を紹介します。
高校3年生の時でした。当時京都では、金曜日の夜だけ三条河原町という繁華街の喫茶店を借りて、伝道集会をしていました。上原令子さんという沖縄のゴスペル歌手が来るというので、のこのこ出かけてゆきました。上原さんは、私の心の中を見抜いているのではないかと思うお話をされました。
この中でクリスチャンらしくなってから、イエス様を信じて洗礼を受けようと思っている人はいませんか?残念ながら一生無理です。今のありのままのあなたでいいのです。ありのままでイエス様の所に飛び込めば、イエス様があなたを変えてくださるのです。
私は、喫茶店の椅子に座りながら、お話を聞いて思いました。今のそのままの自分でいい。ありのままでいい。その言葉がうれしくなりました。それと共に、私の心に何かがやってきたような感覚でした。
「何か」としか言えないのですが、今振り返ると、それは聖霊が私の心に「信仰」を運んで来て下さった。そのように受け止めているのです。
信仰は与えられるものだと、聖書に書かれていることなのに、私はがんばって信じる人にならなければと思っていました。
信仰は与えられる。それを示す聖書の箇所は、ガラテヤの信徒への手紙3章23節と25節です。
協会共同訳では、真実が現れる前は(23節)、真実が現れたので(25節)と訳しています。
ギリシャ語ではピスティスという言葉で、真実とも信仰とも訳せます。協会共同訳は「真実」と訳しました。
口語訳、新改訳2017、新共同訳、いずれも「信仰が現れた」と訳しています。
その箇所の英語には、before faith came(23節), after faith has come(25節)があります。
直訳するならば、「信仰がやって来た」です。
神様のところから私たちのところに信仰がやって来たのです。
イエス様が私のために十字架にかかって死んでくれた。信じるか信じないかは、私次第だ。そう思っていた私のために、神様は御子を十字架に付けるだけでなく、信仰も与えてくださったのです。
「信仰が来る」ということを語るある先生は、信仰は自分で持ったものではない。与えられたものなのだ。
自分で獲得したものなら、自分にとって必要なくなれば捨てることもあるでしょう。しかし神様から大切なものを与えていただいたのであれば、それを大切にしなければならないのです。
私たちは信仰というプレゼントを神からいただいたのです。
②私の信仰と私たちの信仰
使徒信条で、注目する言葉が「我は、~を信ず」であります。
日本語では、天地の造り主、全能の父なる神を「信ず」とあり、信じるという言葉が最後に出て来ます。しかし使徒信条の元々の言葉で言うなら、「私は信じます」なのです。
「私は信じます」であり、「私たちは・・・」ではないのです。
教会の礼拝で、一緒に唱えるのですから「私たちは、~を信じます」でいいと思うのです。
でも「私は信じます」というところに、使徒信条の大切さがあります。
使徒信条は、古代では洗礼式の時に告白されたと申し上げました。これから洗礼を受けようとする人が、告白する言葉であったのです。
ですから、「私たち」ではないのです。他のみんなと一緒という曖昧なものではなく、私は信じます。既にイエス様を信じ、洗礼式を見守っている人たちの前で、私は信じます、そのように告白することが大切だったのです。
しかし私が信じるといっても、持論を述べるのではありません。自分勝手な信じ方ではないのです。
使徒信条が示すのは「私はこう信じます」「私はこうです」というバラバラ勝手なことを言っているのではないのです。
自分の入信の物語を語ることはないのです。すばらしい信仰体験を語ることでも、誰々先生に導かれたことでもないのです。
使徒信条は、自分たちの信仰体験ではなく、私たちが何を信じているかを述べているのです。
日本人は信心、信じる心を大切にするのです。しかし、キリスト教は信じる対象が大切であります。
その信じる対象が、使徒信条には書かれているのです。
それが父なる神を信じること、御子イエスを信じること、聖霊なる神を信じることであります。
これらをシンプルに、個人の祈りの中で行う告白があります。
私は今日もイエス様を信じます。愛します。あなたのおっしゃることなら、何でも従います。そのように告白を口に出すことは、信仰の大きな力であり、励ましとなるのです。
③告白することの大切さ
最後に、口に出して告白する力です。ローマ10:9~10を見て下さい。
日本人は心で信じるけれども告白が出来ないと言います。
隠れキリシタンの傾向があるのです。それは「告白」と言うことが、あまり大切にされてこなかった日本文化の弱点である、とある先生は言われます。
10節を読むと、心で信じることが先に来て、あとから、口での告白が来るのです。
しかし一つ前の9節では、心の中の信仰と口で告白する信仰の順序は逆です。
9節では、先に口で告白し、次に心でイエスを信じると出て来ます。
両者が交換可能であることが分かります。
ある駐在員の方が、奥様に導かれて洗礼を受ける決断をされました。
若かった私は、洗礼を受ける方との面談では、どこか遠慮がありました。ご本人の意思確認をして、一緒にお祈りして、それで十分だと思っていました。
そのあと、英語部のボスが、もう一度面談をするのです。
ボスは、自分のあとについて悔い改めの祈りを一緒にしたのです。
私は、駐在員の奥様からその話しを聞いて、上から目線だな、と感じました。
ところが不思議なことに、そのあと、その方の信仰は明白になったのです。
口に出すことの力を、私は学びました。
今日も、イエス様を信じます、愛します、従います。そのように告白して歩みたいと思います。