2021年7月11日の説経要約  「教会を信じます」

2021年7月11日の説経要約

                                    「教会を信じます」  中道善次牧師

                                        ≪マタイ 16章13~19節≫

 

鵠沼教会は、2021年7月1日で創立67周年を迎えました。すでに、68年目の歩みをしております。そこには多くの聖徒たちの信仰と愛と祈りがありました。今日は「聖なる公同の教会」から学びます。

私たちが使徒信条を告白するとき、聖霊を信ず。その後、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命を信ずと言います。しかし一つ一つに「信じます」という告白が入っていることをご理解いただきたいのです。

聖なる、公同、ともに難しい言葉であります。

公同とは、カトリックという英語であります。それはカトリック教会を信じると言うことではなく、教会はどこでも同じ、一つである。それを信じると言うことであります。

聖とは、分ける、分離するという意味です。この世から分けられて、神のものとなる。つまり教会は神様のものである。そのことを信じますという告白です。

 

1、 教会はイエスのもの

教会について書かれた一番大切だと思われるのが、マタイによる福音書16章13~19節です。

ペトロが、イエスに向かって「あなたはメシア・キリスト」と告白したのです。それに応じるようにして、イエスがシモン・ペトロに言われた言葉が、「私は、この岩の上に私の教会を建てよう。」です。

この岩は、カトリック教会では使徒ペトロのことと理解しますが、プロテスタント教会は、イエスを信じるという信仰告白という岩の上に教会が建っていることを信じるのです。

その信仰の上に教会をたてる。誰の教会を建てるのか。私の教会です。私とはイエス・キリストのことです。

英語では、I will build my church

そこから私たちが覚えるべき事は、教会はイエスのものであります。

私たちはよく「私の教会」と言いますが、それは、私の持ち物としての教会を意味しているのではないことがおわかりです。私が行っている教会、私が所属している教会、私が仕えている教会、それらを指して「私の教会」と言うのです。

クリスチャンであっても、教会を建物のことと思ったり、そこにいる牧師のものであると思ったりします。またもっと困ったケースは、そこに属する有力なメンバーのもののように思ってしまうことであります。

しかし教会は、誰のものでもない。イエス様のものです。

私たちの信じる神、イエスが、教会を建てるのです。建てるとは、欠けを補い、整えることであり、前に向かって前進させることであります。

 

2、教会にはイエスがおられる

マタイの福音書で、16章の次に有名な「教会」についての教えは、18:19~20であります。この二つの節には「教会」という言葉がありませんが、その前後を見ると、教会のことをイエスが語っておられることがわかります。

2~3人の祈りの集まり。その祈りの中にイエスがおられる。そこが教会、それこそが教会なのです。

ここから分かることは、教会は、建物ではない。人々の集まりです。祈りを共にする集まりです。

今では、LINEやZOOMでも祈り合えます。そこにイエスさまがおられる。それが教会であります

もう一つ、教会にイエスがおられる事についての教え、それは、教会はキリストの体であることです。

エフェソ1:23 教会はキリストの体であり、とあります。

その前には、キリストが頭であり、とあります。

つまり頭がイエス、その体が教会であります。

少し極端な言い方をすることをお許しください。つまり、イエス様=教会と言うことが出来ます。

教会を愛することがイエス様を愛することであります。

教会を愛することが出来ない人は、イエスを愛しているとは言えないのです。

私が今まで教会に仕える中で見てきた一番の矛盾は、イエスさまを愛していると言う熱心なクリスチャンが、教会を批判している姿です。

エスは小さくて弱い日本の教会の中にもおられる。まるで、おむつをまかれたイエスが、そこにおられると思うのです。その私の姿を、その教会を愛してくれるか。イエスは、そのように語られるのです。

 

3、教会は愛を学ぶところ

教会に私たちは理想を求めます。それは、教会には愛が満ちていると思うことです。

そのようにあってほしいと思います。しかし同時に教会は、赦された罪人が集まる場所ですから、私たちが理想とする姿でない事があるのです。

私たちは、愛されること、受けること、それらを教会に求める傾向があります。

私は一時期、何故教会をイエスさまは作られたのだろう。救われて、イエスさまを信じてすぐに天国にゆけば、教会の中での人間関係の問題は起こらない。それで教会を去る人が出ることもない。人が集まるから問題も起こる。そのように思うことがありました。

しかしイエスは教会を置かれたのです。私たちはそこに植えられたのです。それは、私たちが、教会の中で愛を学ぶためであります。ある人を受け入れることを学ぶのです。ある人を赦すことを学ぶのです。自分の足りないところを知るのです。人々に仕えることを学ぶのです。

そのような中で、愛の広さ、高さ、長さ、深さを知る。それが教会であるとパウロという人は言うのです。

エフェソ3:17~18 あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んで下さいますように。あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、全ての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものであるかを悟り

愛の広さ、長さ、高さ、深さ、それはあたかも四次元の空間で、愛の中に浮かんでいるようなものです。

その愛をどこで学ぶのか。全ての聖なる者たち、それは、クリスチャンと言われる人たちと共に学ぶのです。

教会は、最初から理想的な愛に満ちた場所ではありません。でも人々を愛するために、赦すために、受け入れて仕える為に、キリストさまが愛を注いでおられるところであります。