2021年7月4日の説経要約  「神の挿入句」

2021年7月4日の説経要約

                                  「神の挿入句」   中道由子牧師

 

≪しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました 。≫

                   (ローマの信徒への手紙5章20節、創世記38章12〜30節)

 

37章から始まったヨセフ物語が中断されたように、このユダの家庭の話が挿入されます。

 

1、ユダの孤独

  ユダは兄弟たちと離れて下って行き、ペリシテ人の地に住み着いた。

ヨセフを売り飛ばした後、兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸しました。それを父親に見せたのです。

33節 「父は、これを調べて言った。『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。』」

ヤコブは何時までもヨセフの為に嘆いたのです。それを見て兄弟たちの間に論争が起こりました。こんな結果になったのはユダが中途半端な提案をしたからだ。

ユダは兄弟から責められて、一緒にいることが出来なくなってしまいました。

ユダは孤独になりました。

その点では、ヨセフの気持ちを理解できる経験をしたと言えるでしょう。

彼が下っていった場所は、アドラムです。

しかしユダはその場所で慰めを得たのです。ヒラという人の近くに天幕を張って住み、そこで、シュアという人の娘と結婚したのです

 ユダは、アドラム人のヒラ(救いという意)が、おおらかに、暖かく自分を迎え入れてくれて、慰めを得ました。

家族と一緒に住めなくなったユダに、神様は人を備えて慰めて下さった。

神さまは、私たちがどのような場所にいても、どのような環境の中であっても、慰めを与えてくださるお方です。

 

2、子供を失う痛み

ユダの妻は身ごもって三人の男の子エル、オナン、シュラを産み、ユダは長男のエルにタマルという妻を迎えました。

しかし、エルは、主の意に反したので、主は彼を殺されたのです。

衝撃的なことです。

エルの罪が何であったかわかりませんが、彼が主を怒らせることを一度や二度ではなく、習慣的になっていたと考えられます。

 長男を失ったユダは当時のレビラート婚に従って、次男のオナンにタマルと結婚し子供を残すように命じます。

9節 「オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入るたびに子種を地面に流した。」

10節「彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。」

 

ユダは、二人の子どもを失いました。その時、初めて父ヤコブがヨセフを失った時の悲しみを思い起こしたでしょう。

誰の慰めも拒否して悲しみに暮れた父の姿を。

 

 後にエジプトで、総理大臣になったヨセフにユダは嘆願しました。

44章30、31節「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところに帰れば、父の魂はこの子の魂と固く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは、白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。」

 

父の魂は子どもの魂に固く結ばれている。

これは、ユダでなければ言うことの出来ない言葉でした。

「この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」

そのように訴えかけるユダの嘆願に、ヨセフはもう平静を装うことができなくなり、自分の身を明かし、声をあげて泣いたのです。

 

私たちが人生で受ける痛みが、誰かの癒しに、慰めになります。

傷ついたことのある人だからこそ人を癒すことが出来るのです。

ユダの受けてきた痛みが、ヨセフの痛みを癒し、ヤコブの痛みを癒し、兄弟を窮地から救う役割をすることになるのです。

 

3、ユダの家系

創世記38章に戻りますが、ここではさらなる悲劇が記されています。

それはユダとタマルの間になされた近親相姦であります。

ユダは、三男シェラもまた死んでしまうかもしれないと恐れ、結婚させませんでした。タマルはユダの三男シェラが成人したのに、ユダがその約束を破って自分たちを結婚させるつもりがないことに気づき、それで、彼女は、ユダが彼女の実家の近くにやってくるというニュースを知って、遊女の姿に変装したのです。

ユダは妻に先立たれていました。

レビラート婚の義務は必ずしも義理兄弟だけに限られているわけではありませんでした。タマルが、ユダの後妻になる可能性もあったかもしれないのです。

どうしてそこまでこのユダの家にタマルは、こだわったのでしょうか?

彼女はユダの家の後継者を産む使命にこだわっていたのです。

二人の息子を亡くし、妻を亡くしたユダは、自分の嫁を遊女と勘違いして関係を結んでしまいます。その時、タマルが求めた「報酬」は、ユダの「ひもの付いた印章と杖」でした。

これはユダの身分を証しする重要なもので、彼女の命を救うことになるものでした。

それから三か月してユダは、嫁のタマルが売春をしてその行為によって身ごもったというニュースを聞きます。その時ユダは激しく怒り、「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。」と命じます。

彼は自分が約束を破ったことと自分もまた遊女と交わったことを棚に上げて、一方的にタマルを責めたのです。

このように人の罪を裁くことによって、自分を義としようとすることがないでしょうか?

ユダは、タマルが持っていた「しるし」により、「わたしよりも彼女の方が正しい。」と自分の非を認めざるを得ませんでした。

その結果、タマルに双子の男の子が生まれてきました。

神様は、このようないまわしい事件さえ贖われるお方、「贖いの神」であります。

マタイによる福音書1章2、3節 「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってぺレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、」

ユダヤ系図には通常女性の名前を記すことはありません。

加えてユダヤ人は旧約聖書を知っております。

マタイ福音書ユダヤ人を対象読者として書かれたのです。

ユダはタマルによるペレツとゼラの父とあるのをユダヤ人が読めば、ユダが嫁タマルと関係を結んだことによって生まれたことはすぐにわかるのです。

嫁と関係を結んだ結果生まれた子どもがイエス・キリストの先祖となった。

普通だったら隠してしまいたい系図であります。

しかしその罪さえ贖い、救われるお方としてのイエスの姿が描かれているのです。

ペレツもゼラも出産の事実を受け止めて生きていったでしょう。

チャールズ・スウィンドール先生の「あなたとあなたの子供」という本の一つの章に「親が望まない子」という項目があります。

そこには「親が望まない子、その子こそ神がお望みの子なのです」と書かれています。

私たちの人生における失敗も失望も悲劇と思えることすら、神さまは、私たちの人生のなくてならない挿入句として用いられるのです。