2021年6月27日の説経要約 「 神の武具を取る」

2021年6月27日の説経要約         

                        「神の武具を取る」   照内幸代牧師

 

≪だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい。≫

                              (エフェソの信徒への手紙 6章13節)

 

まずパウロが書いていること、それは、クリスチャンたちが戦う相手についてです。それは人ではない、悪の力そのものなのだということです(11~12節)。人が罪は誘惑に対して弱いものであるからです。

そこでパウロは罪の力と戦うために、神の武具を取りなさいと勧めます(13節)。戦うべき相手は悪の力である。それならば、人間が人間に対して使うような武器ではなく、悪の力に対する武器を取らなければなりません。14-17節とあります。それはなんとまあ守りの武器が多いことでしょうか。聖書が教えることは、第一に自分の身を守るための防具なのです。それが完全でなかったら、悪の力とは戦えないのです。真理の帯、正義の胸当て、福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、これらすべて身に付けて、ようやく悪の力に抵抗ができるのです。いかに私たちは悪の前に弱い存在であるかを思います。

そして御霊の剣ですが、これも私たちが想定するような戦い方をするためにあるのではないことが、聖書を読むと分かります。主イエス様はペテロがご自分を捕らえにきたローマ兵に切りかかってその耳を切り落としたとき、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃっています。では聖書でみことばの剣というときどう言っているかと言うと、へブル人への手紙4章12節にこうあります。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、間接と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いやりや考えを見分けることができるからです」。剣にたとえられる神の言葉は、あらゆるものを切り分けて、刺し通して、心の思いや考えを見分けるためにあるのです。私たちは戦いと言うと、相手とやりあって打ち負かすということを想像します。しかし霊における神の戦いはそうではありません。まず防御一線。剣も相手を打ち負かしてこてんぱんにやっつけるためではなく、自分の思慮のために使うのです。これが神の子とされた私たちの戦いなのです。

では誰が悪の力をやっつけてくれるのでしょうか。誰が悪をこてんぱんにして撃ち勝ってくださるのでしょうか。それは神様です。神様は私たちが悪と戦うというときに、私たちが攻撃して私たちが勝つということを想定していません。私たちが自分の身を守り、神に信頼して神の勝利を得ることを想定しています。勝利を取られるのは、神様なのです。まず自分自身が神の前に信仰者であるということが求められます。そうして私たちが神の武具で身を固めたら、あとは神様が勝利してくださるのです。

最後にパウロは祈ることを勧めます。あれ、神の武具の話は終わったんだろうかと思われますが、これこそ神の武具の完成形です。祈りこそが、悪の力に対する戦いにおいて、一番の助け、一番の力になります。今まさにローマによって鎖に繋がれ、裁判を受けていたパウロにとって、祈りの力こそ最も実感する助けだったのです。