2021年6月20日の説経要約 「夢を見ました」

2021年6月20日の説経要約

                             「夢を見ました」    中道由子牧師

 

≪「主がヨセフとともにおられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」≫

                                                      (創世記37章1~11節、39章23節)

 

ヨセフが関係する夢は3つ出てきます。

一つ目はヨセフが見た夢で、二つ目は獄中でヨセフが解き明かした夢です。そして、三つめはファラオが見た夢です。

 

1、神が共におられた(ヨセフが見た夢)

37章からの直接の主人公は、ヤコブの子供であるヨセフです。

そして、これを読む私たちは、やがて、この物語の本当の主人公が神であることに気づくようになります。

具体的に神が目に見える形で現われはしません。

けれども、ここに登場する人間一人一人の背後で働く神の摂理を見ることになります。一人一人の何気ない行動が、つなぎ合わされて、神のみわざの完成へと向かわせられていくのです。

それがこのヨセフ物語のテーマです。

 

最初の夢はヨセフ自身が見た夢でした。

ヨセフとその兄たちは、羊飼いでした。

彼は17歳の時、兄たちと一緒に働いていたとあります。

そして、年をとったヤコブにとっては、若い時の公平さがなくなっていたのでしょうか。

息子たちの誰よりもヨセフを愛していたと書かれています。

ヨセフはヤコブが一番愛した妻ラケルの子供でした。

父親は、このヨセフにだけ特別に「袖の長い晴れ着」を作ってやりました。

この衣装は、特別高価な物でした。祭司や重要な地位にある人が着た服と同じようなものと思われます。

長服にはヤコブの相続者という意味もありました。

それは、兄弟たちからの強い恨みをかう対象となりました。

そのような晴れ着を着た少年が羊飼いとして兄たちと一緒にいたのです。

17歳になったヨセフはどうか、というと自分が今家族の中でどのような緊張関係の中に置かれているのかを少しも理解していませんでした。

4節を見ると「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」とあります。

兄たちとヨセフとは、決してシャロームの平和の関係ではなかった。

そんなある日、ヨセフは夢を見ます。

その夢は、普通の人が見る夢にしては、あまりにもはっきりしていました。しかも異常な夢でした。

だから、ヨセフは誰かに話さずにはいられなかったのも知れません。

普段から関係がうまくいっていないお兄さんたちに、悪気がなくても、弟の言葉を素直に聞くとは思われません。

彼は無神経にも衝撃的な2つの夢を兄たちに語りました。

一つは、畑で兄弟たちの束がヨセフの束の回りに来ておじぎをしたという夢でした。お兄さんたちは怒りました。

もう一つは、太陽と月と十一の星がヨセフを伏し拝んだ、という内容でした。さすがに父もヨセフをたしなめました。

この夢が意味するところは、ヨセフが彼の父母、そして兄弟たちを治める者になる、助ける者になるということです。

そして、彼は、やがてエジプトの王の夢を解き明かすことになります。

少年ヨセフが見た夢もやがて実現します。

この時、ヨセフは自らの高慢さに気づいていなかったのですが、ヨセフが語ったことが実現するために、神はヨセフを様々な試練に遭わせます。

詩篇105篇19節「主の仰せが彼を練り清め、御言葉が実現するまで。」

と書かれています。この夢が現実となるためには、ヨセフは多くの困難を通らなければなりませんでした。

その背後に神はおられる。

 

2、私を思い出してください(獄中での夢の解き明かし)

次に出て来る夢は、40章1節からです。

大きくヨセフの環境は変わっていきます。

カナンにいたヨセフに襲った不幸なこと、それは兄たちによってエジプトに売られてしまうという悲劇であります。

商人はヨセフをエジプトの地に連れて行って、そこでパロの宮廷役員のポテファルという人に売られます。ポテファルの家でヨセフは一生懸命働きます。

ポテファルから信頼され、全財産を任されるようになるのですが、ポテファルの妻が言い寄って来て、ヨセフはその誘惑から逃れますが、思わぬ濡れ衣を着せられ、牢獄の生活を強いられることになります。

しかし、ヨセフの身の上が最悪になるにつれて、神が与えた夢の実現に少しずつ近づいていっているのです。

39章21節「しかし、主が共におられ、恵みを施し」

このような不幸な出来事の中にも、主はヨセフとともにおられた。ヨセフはポテファルの妻やポテファルを恨むことをせず、神に文句も言わなかった。

神の摂理は、人間の計画やたくらみや悪意に影響を受けないのです。

ヨセフは獄中でも信頼され、獄中の囚人を皆ヨセフの手に委ねられました。そんな中です。

40章でエジプトの王ファラオの給仕役と料理役の長が罪を犯し、獄に入ってきます。彼らは夢を見て、その夢の意味がわからず悩んでいると、ヨセフがその夢を解き明かします。解き明かしの通り、3日目のファラオの誕生日に給仕役は釈放され、料理役は木につるされます。

ヨセフは給仕役の夢を解き明かすとき、このようにお願いするのです。

40章14節 「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。」

 

38節「ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。」

残念でしかたないことですが、このこともまた神の御心でありました。

ヨセフがもしこの時に牢獄から出されたならば、二年後にパロの夢を解き明かすチャンスが与えられたかどうか分からなかったでしょう。状況は違っていたかもしれません。

人のすべての冷淡や忘却―ポテファルの家の冷たい仕打ちや給仕役がヨセフのことを忘れてしまったこと、にもかかわらず、神はご自身の計画をご自身の時に実行されます。

 

3、それは神です(ファラオの夢)

41章1節「二年の後、ファラオは夢を見た。」のです。

やっと神の時が来ました。

9節「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。」

やっと給仕役がヨセフのことを思い出したのです。

ファラオの夢という重大な出来事の前に自分に起ったこと、ここで自分の過ちと言っていますから、あれほど世話になったのに、ヨセフのお願いを忘れてしまったという罪意識にやっと目覚めた。それだけではない、この夢の解き明かしが出来るのは、ヨセフ以外いないと思い、ファラオに伝えたのです。

ここで注目したいのは次の聖書の個所です。

41章16節 ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」

かつて「私は夢を見ました。」と得意になって話した青年ヨセフではありません。

また、王の給仕役に自分のことを話してくれ、と頼んだヨセフでもありません。

ヨセフは、王の前で、こう答えています。

41章32節「ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。」

そして、具体的な政策を打ち出します。ヨセフは、これから起こる飢饉のためにエジプトの食料を整える働きを命じられ、エジプトの総理大臣となります。

これはヨセフの出世物語ではありません。

どんな困難の時にも「主はヨセフと共におられた。」

彼は決してひとりぼっちではなかった。

長い試練が続く時、私たちを忘れないで共にいてくださる主を覚えましょう。