2020年11月29日の説経要約
「マリアとヨセフの冒険」 中道善次牧師
≪マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで天使は去って行った。≫
(ルカ福音書1章26~38節)
イントロ:今日からアドヴェントが始まりました。
ある方が、「アドヴェント」の意味について質問されました。
私は短いメッセージを込めて、アドヴェントはアドヴェンチャー(冒険)と関係があるのですよ。そのように答えました。そのように申し上げたら大変喜んでいただきました。
英和辞典を調べると、アドヴェントの意味には、到来、出現があります。
イエスが、この地上に現れてくださる。これが第一の意味であります。
辞書の派生語には、外来の、つまり外からやってくる、という意味があります
イエスは、外の世界からやってこられました。天の世界からこの地上に降りてこられた。それを受肉と言います。神の子が人間になられる。これはイエスにとって大きな冒険であった。
第二にアドヴェンチャーには、思いがけない素晴らしい経験という意味があります。地上に到来されたイエスを信じて救われることは、思いがけない、素晴らしい経験であります。
イエスを信じて生きることには、信仰の冒険が伴うことがあるのです。
神を信じていたイエスの両親マリアとヨセフ。彼らの子どもとしてイエスが誕生することを受け入れること、それはまさにアドヴェンチャーでした。
① マリアのアドヴェンチャー(冒険)
天使がマリアのところにやって来て、受胎を告げる。私たちがよく知っている受胎告知の物語です。
私たちは、この物語の結果を知っているので、これはハッピーな出来事と思いますが、マリアはそうではありませんでした。
ルカ 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
マリアは、戸惑ったことが聖書に書かれています。口語訳聖書では、胸騒ぎがしたとあります。
マリアがまず考えた事は、これが本当の事だとしても、誰にも打ち明けられない。どうしよう。そのような出来事であったのです。
みんなが、この出来事を理解できないはずだ。それがわかっているから、マリアは誰にも相談できなかった。自分が救い主の母になると言うことは、人に理解してもらえるようなものではなかった。
それは、愛する婚約者のヨセフであっても、わかってもらえるはずがないことであった。
それだけではない。もっと大きな危険が伴っていました。
この妊娠は、誰か別の男性の関係を持った結果だ。そのように訴えられたならば、石撃ちの刑にされる。自分の命が危なくなる。そのような危険が伴う出来事でした。
マリアは、孤独な決断をしたのです。私たちが神様を信じる時、あるいは神様に従うとき、周りの人々に理解してもらえないで、従わなければならないことがあります。
ルカによる福音書を見ると、マリアは三つの事をして、この冒険に乗り出したのです。
第一は、38節の言葉です
「わたしは主のはしためです。お言葉通りに、この身に成りますように。」
神様の思われるとおりにして下さい。
どのような事に直面しても、私たちが口にする祈りは、神様、あなたの思われるとおりにして下さい。
第二は、エリサベトを訪れ、彼女の家に3ヶ月滞在したのです。ルカ1章39~45節にあります。
エリサベトだけは、この不思議な妊娠を受け入れる事が出来たのです。何故なら、彼女も天使が現れて、男の子を産むというお告げを受けた。似たような経験をしたからです。
理解してくれる信仰の先輩を持つ事は大切です。一緒に祈ってくれる信仰の友を持つ事は大切です。マリアは、エリサベトの助けを受けたのです。
そして第三に、マリアがしたこと。それは賛美を歌った事です。
それがマリアの賛歌、マグニフィカートであります。ルカ福音書1章46~55節です。
日本語では「私の魂は主をあがめ」という言葉ではじまります。
これを直訳しますと、私は神様を大きくします。拡大します、となります。
「あがめ」は、マグニファイという言葉です。そこからマグニフィカートという歌の題が付きました。
マグニファイという言葉のもとになっているマグは、メガというギリシャ言葉で、100万倍です。
マリアは、賛美することで神を拡大すると告白したのです。
そうしなければ、不安、恐れ、孤独、批判などで押しつぶされる危険がありました。
落ち込む代わりに、マリアは賛美を選び取ったのです。そして神を大きくしたのです。
② ヨセフのアドヴェンチャー
次に、マリアの夫となったヨセフから学びたいと思います。
神は、マリアが救い主の母になる孤独な決断を求めたのと同じように、夫ヨセフにも孤独な決断、アドヴェンチャーを求められたのです。
それはマタイによる福音書1章18~25節に記されています。
ヨセフは、マリアが誰かと関係を持って妊娠したのだと疑ったことが、19節から分かります。
しかし心優しいヨセフは、マリアを訴えることをしないで、「さようなら」と別れを告げる覚悟をしていたのです。
マタ 1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
神は、マリアの葛藤もヨセフの葛藤もおわかりでした。神は、天使をヨセフに遣わして、マリアのお腹の中の子どもは聖霊によるものだ。生まれてくる男の子は救い主だと言うことを伝えられたのです。
ヨセフは、天使から「神の子」が生まれると言われて、それを理解し、受け入れました。
マリアの妊娠は聖霊によるものである。これをヨセフは受け入れたのです。
ヨセフの第二のアドヴェンチャー、それは身重のマリアを連れてベツレヘムに行ったことです。
ルカ福音書2章では、ローマ皇帝からの住民登録をせよとの命令があったとあります。ベツレヘム行きは、それに従ってのことでしたが、ベツレヘムに住民登録に行くのは男性だけで十分だったのです。女性は行く必要はなかったのです
しかしヨセフはマリアを連れて行きました。この時マリアは妊娠8ヶ月を過ぎていました。
マリアはロバに乗ってベツレヘムまで行ったのではなく、徒歩で150キロ程の距離を歩かなければならなかったのです。彼らはロバを所有する経済力がありませんでした。
何故そこまでしてヨセフはマリアをベツレヘムに連れて行ったのでしょう。
それはマリアを一人ナザレに残しておいて、自分だけベツレヘムに行くことが出来ない状況があったからです。マリアの妊娠を快く思わない人々からひどい目に遭わされることを心配したのです。
ナザレの村人からの冷たい視線を受けなければならなかったのです。
それは親戚からも同じでありました。
ナザレに住んでいたヨセフの親戚もまた、ベツレヘムに登録に行かなければならなかったのです。彼らの方が、マリアとヨセフより先にベツレヘムに到着していたはずです。しかし彼らの誰も、マリアとヨセフのために宿を用意していなかったのです。通常、親戚の中に8ヶ月の妊婦がいたとするなら、先にベツレヘムに行った親戚が宿の手配をしてあげると思います。彼らは親戚の人々からも拒絶されていたのです。
マリアとヨセフ、イエスの両親になった二人は、「神に従う」という決断をしました。これは大きな冒険でした。そして人々から理解されないという孤独を経験したのです。
神様を信じて生きることは冒険であります。