2020年11月22日の説教要約 「熱いか冷たいかであってほしい」

2020年11月22日の説教要約

                   「熱いか冷たいかであってほしい」 照内幸代牧師

≪私は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから熱心に努めよ。悔い改めよ。≫

                  (ヨハネの黙示録3章19節)

 

本日はヨハネの黙示録の三章を読みます。ここで出てくるサルディス教会とラオディキア教会は、イエス様から厳しく叱られています。一体どのような点をおしかりになられているのでしょうか。

 

サルディス教会:死んでいる

エス様はサルディス教会にこのように言い残します。

「あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」これはすごい言葉ですね。このイエス様の言葉というのは、私たちに生きているとはどのようなことなのか、考えさせられる言葉だなと思います。聖書は、私たちが神様によってつくられたと言っています。創世記2:7「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」。神様の霊があるということ、神による命があること、それが生きているということなのです。この神様と離れて、永遠の命を失っているということは、イエス様がおっしゃっている、「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」ということなのです。この地上で富を築き、ほしい物を全て手に入れて、地位や名誉を得たとしても、それは永遠に残るものではないからです。確かに、息をして、生活をして、自由があるかもしれない。でもそれは神の目から見た生きていることとは違うのです。花瓶に活けられたお花はとてもきれいですが、必ず枯れてしまいます。命がもうないからです。もう地面に植わった根っこがないからです。イエス様はサルディス教会に、悔い改めて立ち返るようにおっしゃいます。どうか目を覚まして、信仰に立ち返ってほしいと願っていらっしゃいます。

 

ラオディキア教会:ぬるい

七つの教会の内、イエス様から全く褒められず、お叱りだけ受けた教会もあります。それがラオディキア教会です。これは本当にイエス様の面白い視点だなと思いますが、彼らが厳しく叱責された理由は、「あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもない」ということなのです。私たちからすると、このラオディキア教会は偶像礼拝もしていないし、信仰も失っていないし、イエス様の愛を忘れてもいないのだから、そんなに厳しくおっしゃらなくても良いのではないかと思います。しかしイエス様は、この熱くもない、冷たくもないラオディキア教会を口から吐き出すとおっしゃるのです。

おそらくこの教会は、イエス様を信じる者たちが増えて、大きい教会になり、奉仕者も十分にいて、また迫害の手も及んでいなくて、自分たちは平和だと思っていたのでしょう。そしてきっといつしか、伝道しなきゃとか、ローマ帝国と果敢に立ち向かわなければという熱い気持ちを失っていったのでしょう。かと言って、毎週教会には行くという、そういう信仰生活になっていたものと思われます。

非常に興味深いことに、実はイエス様というお方は、信仰を失った人には大変お優しいお方です。逆に、信仰者に対してはとても厳しいお方です。逆ではないのですかと思われるかもしれません。しかしイエス様にとって、信仰を失った人というのは、宣教の対象なのです。イエス様は取税人マタイを弟子にしましたし、取税人ザアカイの家に行って一晩お泊りになりました。もし教会の人が信仰を失ったのなら、その人は宣教の対象なのだというのです。逆にイエス様は、律法学者・パリサイ人と対決しました。彼らこそ、人々は最も信仰深い人たちであると思っていました。しかし彼らの信仰こそなまぬるかったのです。神様に対する信仰はあっても、愛はない。律法の規定通り宮に献金をして生活していても、神様の愛を広めるということはせずに、自分たちに満足している。イエス様はこういう人たちに対して、大変お厳しかったのです。なぜでしょうか。それは信仰者が、イエス様の弟子であり、神様の子どもであるからです。へブル人の手紙にはこのような言葉があります。12:7,8「訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。」皆さんもきっとだだをこねている子がスーパーマーケットにいたとしたら、きっとその子を見ても注意したりはしないでしょう。自分の子どもではないからです。しかしもしそれが自分の子どもであるなら、スーパーでは静かにしなさいと注意するはずです。自分がその子供を育て上げる責任があるからです。

皆さんはそれを聞いて、どう思われるでしょうか。そんなのは不公平だと思われるでしょうか。しかし、もし神様がそのように不公平なお方でなかったとしたら、この私は救われていないということなのです。神様がこのように不公平で、神様を知らない人にはお優しくて憐み深い方であったからこそ、私たちは救われる恵にあずかったのです。そのような神の憐みを知り、愛を知りながら、その信仰が生ぬるくなっているものに対して、神様は我が子を叱るように叱られるということなのです。

私たちは神様の憐みによって、神様の愛子としていただきました。神様の子として、イエス様の弟子として、今週も神様から離れずに歩みましょう。