2022年8月21日の説教要約 「神のわざが現れるために」

2022年8月21日の説教要約
 「神のわざが現れるために」  中道由子牧師 
 《イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

                   (ヨハネによる福音書9章1~12節

 

1.誰のせいか

 イエス様は宮から出て行き、道の途中で物乞いをしている一人の人に出会いました。

彼は気の毒なことに生まれつきの盲人でした。

当時の考えでは、肉体的な病気は罪の報いであると考えられていました。

エス様の弟子たちも同じ考えを持っていました。

人間は弱い存在です。頭ではいくら迷信だと分かっていても、たたりや因縁を恐れる生

活からいつまでも抜け出せないということがあります。

そこから抜け出せる唯一の道は、ただ真理を知ることです。

ここで弟子たちの問いかけに対してイエス様が語られた言葉は、弟子たちにとっても当

時のユダヤ人にとっても全く新しい教えでありました。

人間の病気や不幸を罪と結びつけていた当時の思想をイエス様は否定された。

そのうえ、人の目が見えないのは神の業が現れるためなのだと、驚くべき解釈であります。

彼の目が見えないのは誰かの罪のせいではない。

神は、人間的な不幸を不幸のままで終わらせないお方である。

いやむしろ、神の業の現れる積極的な機会としてくださるのであります。

重い障害を負った瞬きの詩人の水野源三さんの詩をご紹介したい。

「もしも私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら 神様の愛は伝えられなかった

もしも主なる神様が苦しまなかったら 神様の愛はあらわれなかった」

 

2.シロアムの池で洗いなさい

 イエス様は、地面につばきして泥を作り、盲人の目に塗って言われました、「シロアムの池に行って洗いなさい」。

中近東においては今でも「つば」は「目の病気を癒すことができると信じられているとのことです。当時のユダヤにも当然この考えがありました。

「シロアム」、それは「遣わされた者」と言う意味でした。

キリストこそ、全人類に天から遣わされた命の水「シロアム」でした。

男はイエス様の言葉を聞いて従いました。主イエスが言われたとおりにすると、どうでしょう?彼の目は即座に見えるようになりました。

エス様のいやしは盲人の目を開くという身体的な癒しでしたが、同時に人格的な癒しでもありました。イエス様はご自分の言葉に聞き従う者の心の中から、その人がこれまで待ち続けてきた心の闇をも取り除かれました。

エス様の関心は常に人格的な癒しで、それは体だけでなく心にも届きました。

物乞いをするしか生きてゆけなかった彼が、キリストの証人とされたのです。

彼はそのために何か手を伸ばし求めたでしょうか?祈りを重ねたでしょうか?

いや、この男はそのようなことを一切していないのです。「目が見えるようにしてください!」と叫んで主にお願いをしたわけでもない。一方的に救いが起こったのです。

ただそのことに十分気づいていないだけでした。いったい自分に触ってくださった方が誰であったかと言うことに気づいていないだけでした。

私たちが立派な信仰を言い現わしたら、イエス様が、よし、お前のために死んでやろうと言って死んでくださったわけでもない。

この愚かな者のために主イエスがしてくださったことに気づき、感謝する。

そこに信仰が生まれるのです。

 

3.今は見える

 癒された男は癒し主の顔を見ていなかったので、人々は彼をファリサイ人の所へ連れて行きました。

しかし、ファイサイ人たちはその男の証言を信じなかった。

そこで今度は彼の両親を呼んで問いただすという行動に出ました。

そうしたら彼らの剣幕に恐れをなしてか、彼の両親は事態に深くかかわるのを避けようとしたのです。この両親は事の次第と真相を知っていたと思われます。

しかし、それを話すそうとはしない。

息子はもう大人ですから本人から直接聞いてほしいと、用心深く答えています。

 今まで目が見えない息子をかばって生きてきたこの両親が、ここで彼を突き放しています。どうしてかと言うと、この子が神様と特別な関係に入ってしまったからです。

けれどもこれはまさに〈おとな〉になることを意味していました。

信仰の継承ということを言われますが、しつけのように子供は親に言われて信仰を持つということはできない。親は子供を説得して信仰を持たせることはできない。

子供たち一人一人が神と出会うことです。そしてその段階で親ができることは、ただ「神様、あの子に会ってやってください」と祈るしかありません。

ここでこの盲人の男の両親は、イエスを神から遣わされたお方と認めたりすれば、会堂から追放されて「村八分」にされることを恐れていたのです。

ファリサイ人はこの男を呼び出して、彼の口からイエスを罪人と言わせようとしました。

ところが彼は、25節「あの方が罪人がどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」とはっきり証言しています。

素晴らしい証です。信仰とは、主イエスとの出会いの経験なのです。